その原因を罪に見出す
昨日は「人は変わらない以上、歴史は必ず韻を踏む」と書きました。文明の進歩によって人は変わったように思います。実際、一人当たりの知識、寿命、生産性などは右肩上がりです。しかし、人間の本質的なところは何も変わっていません。聖書の価値観で言えば、その原因を罪に見出します。
悪いことをするから罪があるのではなくて、罪があるから悪いことをしてしまうのです。たとえ、盗み、殺しをしなかったとしても、自分のことしか考えない、自分さえよければいいという状態こそが罪のある証拠です。自分は他人のことも考えているという人がいるならそれは環境に守られているからだけにすぎません。
唯一の例外
聖書を旧約聖書から見れば、聖書の原則は明らかです。主によって立てられた器は確かに登場しますが、民衆、群衆は何も変わっていません。ずっと同じことを繰り返しています。そう考えれば、現代においても人間は同じ失敗をし続けることでしょう。噂話が好きで、馬が合わない人を拒絶し、自分さえよければいいと考えるのです。
しかし、唯一の例外があることも事実です。それはペンテコステの日に起きました。主の霊によって満たされる時に人は本当の意味で神の為に生きることができ、利他の精神で生きることができるのです。それは、イエス様の弟子たちが完全に証明しました。さらに、これまでも多くの指導者やクリスチャンがそれを証明しています。
悔いたへりくだった魂
じゃあ、クリスチャンは全員そうなのか?と言われたらそういうわけでもありません。なぜなら、誤解を恐れずに書けばそれは隠されているからです。「聖霊をください」と100回祈ったとしても聖霊の満たしはあり得ないことがあります。むしろ、信じた時に既に聖霊は与えられているものです。じゃあなぜ何もかわらないのでしょうか。
それは、聖霊はへりくだった心の中でしか働くことができないからです。悔いたへりくだった徹底的に自己否定した悔い改めた魂にしか聖霊は働けないからです。イエス様の弟子や現代における指導者、クリスチャンで主の心のとおりに生きている人は間違いなくへりくだりの人です。
韻を踏まない場合
冒頭の言葉に戻ります。「人は変わらない以上、歴史は必ず韻を踏む」
しかし、歴史が必ずしも韻を踏まない場合もあります。それは、へりくだった魂に主の霊が望まれている人の人生においてです。そういう人こそが主が求めておられる人だと思います。僕はこのことを頭ではわかっていても、自分がそうならないことに苦痛を覚えています。どうかへりくだることを教えてください。