クリスチャン生活の難しさ
これは僕だけかもしれませんが書いてみようと思います。それはクリスチャン生活の難しいと感じていることについてです。
たとえ毎日聖書を読んだり祈ったり教会の礼拝に出席しているだけでは全くクリスチャンとして成長しないということです。これは驚くべきことかもしれません。聖書を読んでいるのに、祈っているのに教会に行って奉仕しているのに全く成長しないことがあり得るのだろうか?と思うかもしれません。
求めることを求めておられる主
確かに聖書に関する知識は身に付くでしょう。また、奉仕する姿勢や祈りに関しても訓練されるでしょう。しかし、僕が痛感しているのは、そこに生きたイエス様との交わりがなければ、霊的にはほとんど何も成長しないということでした。これが何よりも大切なことです。
次に大切なことは実際に成長することを求めてそれを言葉にして祈るということです。確かに神様は求める前から僕たちの必要をすべてご存じですが、それを求めることを求めておられます。なんとなくこうなりたいとかなんとなく主に近づきたいと思っている信仰生活だとそれは与えられなかったというのが僕の体験です。
主との親密な交わり
しかし、主との親密な交わりを前提としたうえで神の御心に添うたことを言語化して祈るならばそれは与えられるということです。自分が主にあってもっと聖められたい、いつも純真で純潔な心でいたい、この地域にリバイバルが起きてほしい、教会学校の子供たちにもっとイエス様の愛をしってほしい、この社会で誰かのために生きたい、家族に仕えたい、上司や同僚に仕えたいという願望を言葉にして祈るならば、その瞬間から主が働き始めてくださいます。
なぜ主との親密な交わりが前提になるかというと、もしそのような状態でなければ、たとえ救われたクリスチャンであっても自分の肉の欲が強すぎるので自分のことばっかり祈ってしまうからです。これは僕が長い信仰生活でずっとやってきた愚かなことでした。
何をするにしてもイエス様に頼る
僕はこれまでほとんど聖書の御言を悟って自分のものとして取り入れることができていなかったように思います。だから変われなかったのです。しかし、聖書を読むにしても、仕事をするにしても、家事をするにしても、何をするにしてもイエス様に頼るということが少しずつ分かってきてから確かに変わり始めました。
まだまだ小さい変化ですが、主から離れては何もできないという御言を自分のものにしたいと思っています。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。
ヨハネ 15:5