0792_見かけや体裁を気にしすぎた中身のないぺらっぺらの賛美

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霊的なだけではだめ

僕は大学生の時に、主に仕えることや主を賛美することが馬鹿らしいとまでは言わないまでも、この繰り返しに果たして意味があるのか?と思ってしまったことがあります。当時は歪んだ信仰感を持ってしまっていて、メンタル的にも肉体的にも霊的にもかなり弱っていた時期でした。朝、4時に起きて新聞配達に行ってそのまま大学に行って、教会に行くという生活に限界が来ていました。

この時に信仰には霊的な要素だけでなく、メンタル面や身体面もおろそかにできないと気づきました。最も求めるべきものは霊的なものですが、この地上では肉体を持っている以上、精神面や身体面にも気を配る必要があります。その3要素が互いに影響し合い、結び合い、全人格に影響を及ぼします。

表面的な要素

歪んだ信仰を持ってしまっていたので、僕は世の中のものを羨ましく思うようになっていました。特に当時、高校時代にバンドを組んでいた友人は大学時代にそれぞれでバンドを組んでライブ活動を盛んにしていました。

その一方で僕は週に3回は教会に行って、とてもバンドのメンバーには来てほしいとは思えない曲や曲調で賛美をしていました。もちろん、賛美にとって曲や曲調やジャンルなどは二次的なものであって、一次的なものは霊による礼拝なので、そういった格好的な要素は重要じゃありません。

しかし、僕の心は昔の自分に戻りつつあったのです。

主がされたいことを望む

たとえ、当時僕がしたいジャンルで賛美をしていても決して主に喜ばれることはなかったと思います。また恵まれることはなかったと思います。なぜなら、教会では自分がしたいことをするところではなく、主がされたいことをするところだからです。そして、そういった体裁的なところだけを繕った賛美をしても、それは中身の伴わないものだと思うからです。

だから、当時、僕は自分がしたいことを教会でできなかったことに感謝しています。もし、見かけや体裁など表面的な枝葉的なところだけを見て主に仕えていたら、きっと本質を見逃していたと思うからです。それは中身のないぺらっぺらの賛美になってしまいます。

主がそうされるならそうなる

今でははっきりと言えます。主が賛美の中に住まわれるのに曲調やジャンルなどは重要じゃないことを。もし、主が特別なジャンルに働かれるなら、主がそうされたいと思ったからです。

これからも自分がしたいことをするのではなく、主がされたいことを聞く耳を持って生きていきたいです。

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