ある入力に対して出力しない
先日仕事において出力こそしませんでしたが、イラっと思ってしまうことがありました。イラっとした瞬間以降にはいくつかの選択肢が与えられます。言葉やテキストで出力する、態度で出力する、そもそも出力しない。「ある入力に対して出力しない」という選択はこの世界で生きる上で非常に重要です。
それは、その選択がすべての基盤になっている人間関係に影響を与えるからです。そして、それが原因で仕事や家庭や地域や教会での活動に支障をきたすことすらあります。また出力しないだけでなく、心の中で悔い改めて処理することこそが重要です。
7を77倍する回数まで
先日は教会の説教でイエス様が7を77倍する回数まで人を赦し続けなさいという箇所から語られました。これは冒頭で述べたイラっとした程度の低次元のものではなくて、人には到底できない次元の話です。
人は苦しみながらもこのイエス様の言葉と向き合い、自己否定から主に助けを求める過程を経ます。そして、主の赦しの力が心の中に働き本当に人を赦すことができるようになるのです。この結論に至るには信仰が必要です。なぜなら、「そんなこと人間には無理っしょ」という肉の声が聞こえてくるからです。
自分を苦しめるもの
このことに関して思いめぐらしていた時、ちょうど先日見たNHKの「映像の世紀バタフライエフェクト」でも教えられることがありました。テレビでは第二次世界大戦中、アウシュビッツに収容されていたユダヤ人がナチスを赦すという選択をしたことが語られていました。
そのユダヤ人は人体実験によって心も身体もボロボロにされました。死ぬ一歩手前で解放されて助かったのです。普通に考えれば殺人者など赦す必要はないと思うものです。しかし、彼女は赦すことを選びました。その理由をこのように語っています。
「赦すことで自由を得たから」
つまり、赦さない心を持ち続けることこそが自分を苦しめていたのです。
主を仰ぎ望む
僕は安易にこうったことを書けます。しかし、いざ自分に当てはめて考えるならば、やはり到底赦すことなどできないだろうと思います。しかし、僕にはできませんが主にはできると信じています。
なぜなら、主ご自身は赦し続けられたお方だからです。そして、その主がよみがえって今も共にいてくださり、主のご性質にあずかるという特権を与えてくださっているからです。
「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのかわからずにいるのです。」
きれいごとと片付けるのは簡単です。言うは易し行うは難しというのも簡単です。しかし、できることがあります。それは主を仰ぎ望むことです。