0347_耳に痛い聖書の言葉

耳に痛い言葉

聖書には聞いていて、耳に優しい言葉もあれば、聞きたくないと思う言葉もあります。人間は認知的に「聞きたいと思うことだけを聞いて、聞きたくないことを聞かない」ということを無意識的に行っているようです。ということは、たとえ、聖書の言葉を網羅的に読んでいたとしても、読みたいところだけを読んでいる可能性があるということです。

そして、やっかいなのが、「その自分が読みたいと思っている言葉」が実行できていると、他のこともまるっと「できている」気になってしまうところです。ですので、聖書は霊で読まないといけないというのはそういうことだと思います。自分の世界観や知識や経験や指向性など合った聖書の言葉だけをピックアップして読むことは避けられないのです。まずは、それを認めて、聖霊の助けを求めつつ読むことが大前提になりそうです。

読みたくない聖書の言葉

個人的に読みたくない言葉はたくさんあるのですが、特に読みたくない言葉はこれになります。

神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。
ヨハネⅠ5:3-5

まず、「その戒めを守るのは難しくない」という記載です。難しくない理由は「神から生まれた者は世に勝つ」からだそうです。しかし、僕はその戒めを守ることが難しくないとは思っていません。反対に非常に難しいと感じています。

自分が神の子であるという信仰はあるにもかかわらず、日頃より、イライラしてしまったり、不平不満が心の中に出てきたり、人に対して優しくできないことなど挙げるときりがありません。愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制の御霊の実の中で、すべての徳を身につけることは永遠の課題のようにも思えます。

無理だと思ったら試合終了

聖書に記載されている基準と今の自分に大きな乖離があると、目を背けたくなります。しかし、神の基準は決して変わらないのです。そんな言葉を実行するのは到底無理だと思ってしまえば、そこで試合は終了です。

しかし、一貫性のある人生を歩みたいのであれば、こういった自分が受け入れたくない聖書の一つ一つの言葉に一生涯かけて向き合っていかなければなりません。おそらく、当時の使徒たち、ヨハネやパウロなどの信仰は本気の信仰であり、信仰の温度感、本気度、取り組み方、姿勢が全く僕とは違ったのだと思います。

向き合いたいと思っても失敗はする。それどころか、失敗に次ぐ失敗。しかし、主イエス・キリストの恵みと憐れみはそんな者にも注がれ、受け入れてくださるのです。その憐れみと恵にすがること、イエス様の十字架を信じることがつまり、「わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。」なのかと思いつつ、今日も切実に聖霊の助けを求めつつ歩んでいきます。

おっさんが感じた今日の恵み
■聖書を読む時は、往々にして読みたいところだけを読みがちである。
■だから、聖霊の助けによって、霊で聖書を読まなければならない。
■今の自分と聖書の基準と乖離がある時は、聖書の言葉から目を背けたくなる。
■しかし、御言葉に向き合って、たとえ失敗し痛みを覚えることがあっても、イエス様への信仰があれば、すべて赦されイエス様の勝利にあずかることができる。

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