1293_パウロはなぜテモテに割礼を施したのか?

GPT4に確認

先日、通勤時に聖書を読んでいて理解できないところがあったのでGPT4に確認しました。もしかしたら「聖書のことをAIに聞くのはけしからん」と思われる方もいらっしゃるかもしれないので、過去に書いたブログの自分の考えも書いておきます。

1183_聖書を読む時にAIに聞くなんてけしからん!

0220_一蘭のラーメンは頭で食べる。聖書は霊で読む。
先日読んでわからなかった箇所はここでした。

パウロはこのテモテを連れて行きたかったので、その地方にいるユダヤ人の手前、まず彼に割礼を受けさせた。彼の父がギリシヤ人であることは、みんな知っていたからである。
使徒行伝16:3

これまで何の疑問なく読んでいたのですが、今回はひっかかりました。「あれ、使徒行伝の少し前にはエルサレム会議で異邦人には割礼は施さなくてもいいと決まったのに、なぜパウロは無割礼のテモテに割礼を施したのだろう」と思ったからです。

割礼が救いの条件ではないという理解に基づいる

早速GPT4に聞きました。

おっさん
パウロは使徒行伝でなぜテモテに割礼を施した?割礼は救いに関係ないとエルサレムの会議で決まったのでは?
GPT4
使徒行伝16章で、パウロがテモテに割礼を施した理由について考えると、確かにエルサレム会議(使徒行伝15章)では、異邦人信者に割礼を強制しないという決定がなされました。これは割礼が救いの条件ではないという理解に基づいています。

しかし、パウロがテモテに割礼を施したのは、救いのためではなく、伝道活動においてユダヤ人との間で不要な障害を避けるためでした。テモテはユダヤ人の母親とギリシャ人の父親を持ち、彼自身は割礼を受けていませんでした。パウロは、ユダヤ人に対する伝道活動をスムーズに進めるために、テモテがユダヤ人として受け入れられることを重視し、割礼を施すことにしたのです(使徒行伝16:3)。これはパウロの柔軟なアプローチの一例であり、状況に応じて文化的な障害を取り除くために行動したと言えます。

この行動は、パウロが1コリント9:20で述べているように、「ユダヤ人にはユダヤ人のようになった」という原則に従ったもので、割礼自体が救いに関係あるかどうかという問題とは別の、伝道のための実用的な理由から行われたものです。

聖書の解説書は聖書

GPT4が引用した他の聖書箇所を見て本当になるほどと思いました。

聖書を読むにあたってはよくこのように言われます。「聖書の解説書は聖書です。だから聖書でわからないことがあったら他の聖書の箇所を読んでみましょう。」

聖書に書いてあることは必ず聖書の他の箇所にも同様のことやそれを補完するような内容が書かれているということです。また、聖書箇所を木を見て森を見ず状態にするのではなく、聖書全体がどう語っているのかという鳥の目で見ることも理解に大きく役に立ちます。

聖書はどこを切ってもキリストの血が流れる

その中でも最も重要なことはこれだと思います。「聖書はどこを切ってもキリストの血が流れる」ということです。創世記からキリストの十字架は預言されていました。また旧約聖書に書かれている多くのことはキリストの救いの青写真になっています。一見何の繋がりがあるのだろうと思うことがあってもキリストの救いという側面から見れば理解が深まることがよくあります。

救われていない状態で読んでも聖書はただの知識にしかなりませんが、キリストに贖われた者が読むとそれが本当に神様からのラブレターのように思える書物になります。エレミヤは言いました。

万軍の神、主よ、わたしがあなたの言葉を受けると、それはわたしのものとなり、わたしの心の喜びとなりました。わたしはあなたの名をもって呼ばれる者です。
エレミヤ書 15:16

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