0799_十字架の恵みからさらに一歩踏み出す

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成長しているか

最近このようなことを強く思わされています。それは、神様は多くの恵みと祝福を用意してくださっていますが、もし、十字架の救いだけの恵みに留まり続けてしまうのなら、成長が止ってしまうということです。もちろん、人はこの世で生きる限りは十字架の恵みが必要です。十字架の血潮による恵みがなければ生きてはいけません。

しかし、神様は十字架の救いだけではなく、聖霊によるきよめの祝福や主イエス・キリストが再びこの地に来られることを待ち望む祝福も与えてくださっています。

成長を阻害する生き方

もし、僕がずっと罪の赦しのみに満足してしまうのであれば、成長はありません。しかし、僕には自分は自分勝手に生活しておきながら、神の赦しの恵みだけを求めるという都合のいい生き方をしようとする自己中心的な汚さがあることを知っています。平日は自分勝手に生きて、週の初めの集会で恵まれてその恵みを平日に無駄にしてしまう生き方です。

それはヤコブの手紙で書かれているように「二心の者」であり、そのすべての行動に安定がありません。帆を失った吹きまわされる船のように、風に揺れ続ける葦のように、流されるままの生活になってしまいます。

主を思う生き方

しかし、もし僕が十字架の恵みからさらに一歩踏み出し、聖霊の働きによって内なる自分が聖められることを追求し、さらにイエス様が再び来られる日までに、この内なる人の成長を望み続けるならば、もはや二心になる猶予はありません。なぜなら、内なる人の成長は信仰の導き手であり、その完成者であるイエス様を仰ぎ続けることでしか達成されないからです。

職場でも通勤途中でもお風呂でも寝室でも、いつも主を思う生活です。その恵みは詩篇に書かれています。

このような人は主のおきてをよろこび、
昼も夜もそのおきてを思う。
このような人は流れのほとりに植えられた木の
時が来ると実を結び、
その葉もしぼまないように、
そのなすところは皆栄える。
1:2-3

肉の思いを無力化して

僕の肉は「そんなキリストのことを1日中思っていないで、自分の好きなことをして自分の心を楽しませるほうが心の豊かさにつながるよ」とゆってきます。しかし、もしここで「信仰」を働かせて、日常の小さなところで主を追求し続けるならば、必ずこの世では決して得られることのない平安と喜びが心に与えられることを知っています。

主が再び来られる時に、火で精錬されても朽ちることのない内なる人に主にあって成長させて頂きたいです。

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