愛の書
連日に引き続いて、コリントⅠ13章から感じたことを書こうと思います。昨日は「愛は寛容であり、愛は情け深い。」に続く言葉が意外にも「また、妬むことをしない」であったということを書きました。また、現代はSNSの普及により比較対象が広がり妬みやすく、また妬まれやすい時代になっているとも書きました。
自分が妬みそうになった時はこの御言を思い出して今一度神様の愛に立ち返りたいと思います。今日は、その続きを読んでいて感じたことを書こうと思います。
すべての源を知る
続きは、「愛は高ぶらない、誇らない」と続きます。これはしっくり自分に入ってきます。なぜなら、僕自身が高ぶりやすい人間だからです。たとえば、何か手に入れたり、所有したりした場合、自分がそれを持つ権利があり、自分の力で得たものだと思ったりするのではないでしょうか。
仕事を見つけたら、「自分にはこの仕事をこなす能力があるから見つけたのだ。」とか車を手にしたら、「自分には経済力があるから手にしたのだ。」とかそういうところです。実際は自分が持っているもの経済的なもの先天的な能力や後天的に身に着けたスキルも神様が与えてくださっているものです。
さらに、すべての源は創造主である神であり、神にゆるしと恵によって与えられているにも関わらず、神に感謝することもなく、自分で手に入れた!と高慢になってしまうのです。
当たり前のようにある生存するために必要な太陽、空気、水やその他食料は人間が無から有を起こしたのではなくて、神が無から有を起こした有を享受しているにすぎません。
すべての人に対して無作法をしない
そして、続きは「無作法をしない」となっています。多くの人は無作法はしないのではないでしょうか。特に日本人は礼儀正しい民族と言われています。社会生活を送る中で、電車に乗っていて大声を出したり、列の順番を抜かしたりすることはほとんどないでしょう。
しかし、人が見ていないところで無作法をすることもあると思います。以前、就職活動の時に面接が一緒になった男性が面接後エレベーターに乗った時に、傘の一番下の先の部分でエレベーターのボタンを押していたのです。面接ではハキハキ礼儀正しそうにしていたので、驚いてしまいました。
また、身内に対してはどうでしょうか。僕は身内に対しては無作法をしているのではないかと思わされました。身内には甘えてしまっていることがあると思いました。親しき中にも礼儀ありで誰に対しても無作法をしないようにしたいと自覚しました。
利他的に生きることはできるのか?
さらに、「自分の利益を求めない」と続きます。これは完全に僕には無理です。ほとんど無自覚に自分の利益を求める生き方をしてしまっています。利他的に考えて行動することすらできていません。もちろん、仕事をする上では、意識を働かせて相手のことを考えたりできるかもしれません。それはただ単に利害関係があるからできているだけです。
しかし、全く見ず知らずの人に対して自分の利益を求めずにいられるでしょうか。僕にはできません。だから、ここまで聖書の言葉を読んだ時点でやはり、神様にすがらずにいられなくなります。
どうか今日もあなたの愛で満たしてくださって、自分の利益ばかり求める生き方から解放してくださいと。