0605_罪の問題を解決したくてたまらないお方

きかれるに時がある

神の御心に沿った祈りは必ずきかれます。もちろんすべてのことには「神の時」があります。ある時は、祈り手が整うために主が待っておられることもあるでしょう。またある時は、周りの環境が整うまで待たないといけないことがあるかもしれません。

もっとも忍耐の時は、とても苦しくつらく早く終わらせてほしいと思うこともあります。しかし、すべては「神のなされることは、すべて、その時にかなって美しい」という御言が成就するためです。聖書にはこのようにあります。

わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、
わが道は、あなたがたの道とは異なっていると
主は言われる。
天が地よりも高いように、
わが道は、あなたがたの道よりも高く、
わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。
イザヤ55:8-9

罪の問題

僕はとても自己中心的で傲慢な人間なので、神様の前にへりくだる生き方をしない限り、悪い実を結ぶ生き方しかできないことを知っています。悪い実が自分だけに結ぶ分には百歩譲ってかまいませんが、周りに迷惑をかけるほどにも悪い実を結び続けることは絶対にしたくないと思っています。

神様は僕のこういった弱さをご存知です。もし、毎日助けてくださいと祈るならば、その祈りを聞いてくださいます。「ある人に対して素直に謝れるように」、「ある人に対して寛容な心で接することができるように」、「ある人と和解することができるように」などです。元来の僕の性質はこういったことを絶対にしたいと思いません。「誰が謝るか!あいつが悪いんだ!」などと張り合うのです。

しかし、そういった感情からは平和は決して生み出されません。むしろ、クリスチャンと言いながら、全く神様から離れた生き方をしていることになります。それはまったくもって偽善者にほかなりません。

罪に関する祈りに対して

日々、自分に対して限界を感じている僕の情けない祈りを神様は応えてくださっています。不思議なほどに自然な流れで和解するきっかけを与えてくださったり、寛容な心を与えてくださって実務に当たることができたりと、日常生活の隅々に主が共におられることを教えてくださいました。

多くの場合、問題は自分の心の中にあります。もし、その自分の心の中の問題を自覚して、それに対して主の助けの介入を求めるならば、主は必ず助けてくださいます。なぜなら、イエス様は自分の命を捨てるほどに、人間の罪の問題を解決したくてたまらないからです。

しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲しめをうけて、
われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのだ。
イザヤ53:5

おっさん
■罪の悔い改めに関する祈りがきかれないはずがない

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