1724_主を求める時に必ず必要となる2つの前提

求める者に必ず報いてくださる

主は求める者に必ず報いてくださるお方であることを確信しています。そういうのは決してポジショントークではなくて、聖書にそのように書いてあるからです。

哀歌 3:25
主はおのれを待ち望む者と、おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい。

エレミヤ書 29:13
あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主はい言われる。

しかし、これには前提があります。それは間違った求め方をしないということです。

間違った求め方

僕は恥ずかしいながら、若かりし頃、間違った求め方をしていた時期がありました。そのような時は何をしても雲をつかむような感覚で心にずっと平安がありませんでした。間違った求め方とは第一に高慢、傲慢、高ぶりです。これも聖書の原則です。

ヨブ記 22:29
彼は高ぶる者を低くされるが、へりくだる者を救われるからだ。

イザヤ書 57:15
いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、「わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕ける者の心をいかす。

高ぶった状態で主を求めても主はそこにはおられません。なぜなら、主はへりくだったお方で、上におるべきお方であるのに下にこられたからです。川が上流から下流へ流れるように主の恵みも下の方へ流れていきます。

第二に罪を認めない状態で求めるのも間違っています。これはへりくだりとも密接に関連していますが、へりくだる人は必ず自分の罪を認めます。自分の恥ずかしさ、卑しさ、高慢、不親切さ、愛のなさを主の前にくいます。罪を認めるならば、主は真実で正しいお方だから、僕たちのすべての罪からきよめてくださいます。

決して主がは見放さない

もし、へりくだり、自身の罪を認めて主を求めるならば主は必ず道を開いてくださると信じます。聖書の御言や賛美や祈りによって主に出会うかもしれません。またある時は人との出会いや書籍を通して何か導かれることもあるかもしれません。

時に「主は答えてくださらない」と思うこともあるかもしれません。しかし、それは決して主が見放されたわけではありません。往々にして自分が練られる必要がある時です。

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