自分が平安になりたい
一昨日、昨日に引き続き、自身が置かれている試練に関して書きます。この試練が自身に降りかかってきた時、祈っていた時に主が語ってくださったことがありました。それはこのようなものです。
「わたしと苦しみを共にしてほしい。」
昨日も書きましたが、僕は自分の幸せ、楽しみ、喜びのための存在として主を求めていました。聖霊に関しても、福音宣教のためではなくて、自分のために求めていました。誤解を恐れずに書けば、福音宣教や主の御心とは別に「自分が平安になりたい」という自分主体で求めていたのです。
私の不真実
しかし、主が語って下さった時に自分が間違っていたことに気が付きました。僕はこういいました。
「主よ。私はこれまであなたと生きることで幸いになるから、あなたを求めていました。しかし、私はあなたが33年間歩まれた苦しみに共にあずかろうとは少しも思ったことがなかったのです。主よ。私の不真実をおゆるしください。」
この祈りの時、涙が止まりませんでした。それは悲しいからでも辛いからでもありません。ただ、主と心ひとつになったからだと思います。僕は主の心がこんなところにあるとは思いもよりませんでした。主は喜びや楽しみや幸いや平安の中だけに折られると思っていたからです。
祈りがきかれないという状況の中
昨日は主が生まれてから33年間、殺されることに向かって生きておられたと書きました。また祈りが聞かれずに天の父に裏切られることに向かって生きられたと書きました。確かに主は喜びや楽しみや幸いや平安の中におられます。
それと同時に主は悲しみ、痛み、孤独、苦痛、また祈りがきかれないという状況の中にもおられます。なぜなら主がそれらすべてを経験してくださったからです。主は天の素晴らしい場所から、この苦しみに満ちた世界に来てくださって、僕たちが歩む苦しみをすべて味わってくださいました。
だから、僕は主が共にいてくださるなら、この試練も乗り切れると思いました。
主の思い
僕の思いは今のことでいっぱいかもしれません。しかし、主は必ず御心を成し遂げてくださるから感謝です。
イザヤ書 55:8
わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。