何とかしてこの世を背にして
最近は1日に1時間祈ることを習慣化させるために取り組んでいることを書きました。ある人から見たら「甘い信仰」と思われるかもしれません。それでも僕としては何とかしてこの世を背にして主に向き合って主と生きることに取り組んでいきたいと思っています。
最近はこのようなルーティンになっています。出社する前に5分一人部屋にこもって祈る。通勤時に歩きながら合計20分祈る。お風呂で30分祈る。これで1時間の確保を目指しています。絶えず祈るということにチャレンジして感じたことは、魂がとても清々しいということです。主との交わりは何にも代えられないと思わされています。
必死になる理由①
僕が必死になるかに関してはいくつかの理由があります。一つ目は「主が与えてくださったものを無駄にしたくない」という思いがあるからです。主が与えてくださった最大のものは僕を救ってくださって、永遠の命を与えて下さったことです。天の父は惜しむことなく、尊いイエス様を僕に与えてくださいました。その他にも現在に至るまで、この地上で生きる上で必要なものを主は与え続けてくださいました。
後者は朽ちるものです。しかし、前者は永遠に続くものです。僕はこの与えられたものを無駄にしたくありません。聖書の言葉を引用すれば、霊ではじめたものを肉で仕上げたくないということになります。
必死になる理由②
僕が必死になる理由の二つ目は、「後悔したくない」からです。僕は10年後自分が今と同じような信仰生活を送っていたくありません。人格的にも霊的にも主にあって成熟したクリスチャンになりたいと願っています。38歳まで生きてわかったことは人生は本当に一瞬で終わってしまうということです。
もしこのまま何の成長もせずに40代後半とかになるなら、本当に無駄に生きてきたと思ってしまうからです。この地上では寄留者であり旅人である以上、永遠のことにコミットして、霊的な成長をし続けたいと思っています。
いちばんいいのは天のふるさとに帰った時に後悔しない生き方です。しかし、僕はまだ霊的洞察力や霊の目がそれほど開かれていないので、永遠の目線で後悔したくないという実感を持つには至っていません。だからとりあえず、10年経過した時に後悔したくない生き方をしたいと願っています。
時々刻々と主と共に生きる
後悔しない生き方とは、つまり、「時々刻々と主と共に生きる」ということです。これがノアやエノクや新約聖書に出てくる人物がした生き方です。毎日の宗教生活と見えるようなところに自己満足するのではなく、いつも主との愛の関係の中で歩みたいです。