罪の楽しみを忘却する
僕は今年に入ってからこのような祈りをしています。「私があなたの前に罪を犯す時の楽しみを完全に忘却させ、これまでのすべてのあなたの恵みを思い出させてください。」これは自分が変えられたいと思っているのに一向に変わらない中で葛藤しているときに思いついた祈りです。
忘却とは、うまく付き合わないと人生を左右するほどの力があります。なぜなら、人間は往々にして忘れたいことを覚えてしまい、覚えていたいことを忘れてしまうからです。人間は神様にしていただいたことや恵みは簡単に忘れるのに、神様から離れて自分勝手に生きる時のうまみや楽しみはよく覚えているものだからです。
過去の楽しみを回顧する
出エジプトして、神の大きる奇跡を見たのイスラエルの民が「あーエジプトにいたらよかった。あっちのほうがよかった。」と再び世の楽しみを求めたように、現代のクリスチャンもこの課題をクリアする必要があります。
ある牧師先生がこのようなことを言っていました。「正直、罪っておいしいんです。罪って楽しいんです。だから、気をつけないといけない。」このようなはっきとした表現は今まで聞いたことがなかったのですが、これは本当にそうだと思いました。
罪悪感は感じるか?
ともすれば、罪とは罪悪感や良心の呵責を感じさせるものだと思うかもしれないですが、本人が罪の中にいるときは自分がまさか罪の中にいるなどとは思っていないんだと思います。
もし、自分が罪の中にいると自覚しているならば、それは罪悪感や良心の呵責を覚えるでしょう。しかし、罪とは巧妙で「これくらいならいいだろう」いつけこんで、良心の呵責を感じさせない程度に引き込んでいくものだということを知る必要があります。
完全に委ねること
僕もエジプトの魅力に引かれることがないわけではありません。ここまでは神様に捧げるが、ここからは僕の楽しみとして残していることが実際あります。だから、冒頭の祈りをするようになりました。
「私があなたの前に罪を犯す時の楽しみを完全に忘却させ、これまでのすべてのあなたの恵みを思い出させてください。」
もし、罪のうまみや楽しみを忘れることができるなら、そこに帰りたいとは思わないからです。逆に神様の恵みや祝福や交わることの素晴らしさを忘れることがなかったら、神様のところに留まり続けることを選び続けるでしょう。
祈り始めるときに
祈りとは祈り始めた時から神の力が働き始めます。決して現状の見えるところは変わってなかったとしても神は必ず働いてこの卑しい体を栄光のある体に変えてくださると信じます。