声に出して読みたい聖書の言葉
聖書の言葉は、読むと朝ごとに非常に魂が恵まれるのですが、最近特に音読一発で魂が引き上げられる御言があり、紹介したいと思います。
卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、
弱いものでまかれ、強いものによみがえり、
肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。
コリントⅠ15:43-44
ここには、この肉体をもった、この地上での生活がすべてではなくて、天のふるさと、御国があることが明確に記載されています。僕は「卑しい」という言葉が非常に好きです。なぜなら、自分自身の存在を端的に言い表しており、嘘偽りのないありのままの自分を正しく認識できるからです。聖書はここで、「お前は卑しい」と断定、断罪して、あとは放置するようなことはせずに、「栄光あるものによみがえる」と書いています。
僕自身は超絶卑しいものですが、イエス・キリストにあって、栄光あるものによみがえる希望をもたせていただけるのです。信仰書の定型文を使って表現するならば、まさに「何という幸いなことでしょうか。」だと思います。
能力・資質としての弱さ
次に、「弱い」と記載されています。この言葉も自分自身を正確に表現しています。日常生活を送る中で、あらゆる局面で、自分の弱さを感じざるを得ません。日常生活のあらゆる局面で発動しないといけない意志力、実行力、責任感など能力的側面、あるいは寛容、自制、自愛などの資質的側面、いずれも著しく欠乏しており、弱さを感じざるを得ないのです。しかし、ここでも聖書は放置しません。「強いものによみがえる」と書いています。
自分の弱さを自覚すると、神様に頼らざるを得なくなります。主なる神は助け主なる聖霊を与えてくださり、実際生活の中に介入し、僕の心の中に内住し、この弱き者を助けてくださるから、「何という幸いなことでしょうか。」だと思います。
外観・機能面の劣化
最後は、「肉のからだ」です。肉の体はすべての人類に共通している性質です。肉体は確実に経年劣化し、外観も機能も劣化する一方ですが、唯一、霊的な体こそが永遠に残るのです。個人的には30歳になってから、パンドラの箱が開け放たれたかのごとく、外観・機能での劣化が加速度的に進んでいるのがわかります。新陳代謝も落ちて腹も出てきてますし、走ると肉離れを起こしますし、髪の毛の量も質も落ちていますし、顔面の劣化も著しく進行しています。
しかし、この肉の体はわずか長くて100年くらいお世話になるだけのもので、霊のからだこそが永遠に続くものなのです。そう考えると、この仮の体が存在する100年くらいの期間は、永遠の時間軸の間に存在する小さな点に過ぎません。
今朝も改めて、聖書の言葉は希望に溢れているし、建設的だし、霊的だし、完全栄養食なみの養分を与えてくれると実感しました。
卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、
弱いものでまかれ、強いものによみがえり、
肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。
コリントⅠ15:43-44