虚しい心
僕は「イエス様との深い交わり」から離れてしまっていると感じています。離れているといっても一見離れているようには見えないでしょう。聖書も読みますし、暗唱聖句もしますし、賛美も奉仕もします。教会にももちろん行きます。しかし、なぜか心が虚しいのです。一見、普通に信仰生活を送っているように見えて内心は何かを求めているのです。
ここで僕はその虚しい心の状態送っている信仰生活が無駄とは思いません。むしろ、必死だからこそ、ありとあらゆる手段を使って主に近づきたいと思うのです。もちろん、聖書や賛美をしていて恵まれることはあります。しかし、それだけじゃ足りないと思っている自分が確かにいるのです。
何をしても虚しい
じゃあ、何が足りないのでしょうか?僕がこのような状態からイエス様との深い交わりに戻るパターンは毎回同じです。それは、何をしても満たないこの虚しい心の叫びがイエス様に向かって起こる時です。言葉にならない静かな表現もあるでしょう。声に出すうめきもあるでしょう。ただただイエス様の名前だけを呼ぶ祈りもあるでしょう。
僕の祈りはこのようなものでした。
「主よ、わたしは何をしても虚しいです。興味のある本を読みました。最初は楽しいですが、読んだ後は虚しいです。興味のある運動もしました。運動した後は気持ちいいですが、それ以下でもそれ以上でもありません。音楽も聴きました。でも聞き飽きるのです。僕は本当に自分を満たしてくれるものがほしいです。それは”あなた”です。主よ。わたしはあなたを求めます。」
感謝したい
このような祈りをして、ペンテコステ派よろしく、激しく異言が口から出てきたわけでもありません。霊的な恍惚感があったわけでもありません。僕が思ったことはこのようなことでした。
「イエス様が与えてくださったすべてに感謝したい。僕の身に何が起ころうが感じようがそんなことはどうでもいい。僕はただイエス様が僕にしてくださったことに対して感謝して、賛美してあなたの素晴らしさを褒め称えたいのだ。」
主との深い交わりとは
僕が求めていたのは過去に感じたことのある「いわゆる何かの満たし」ではなかったのです。むしろ、自分が本当に求めているものは何か?という心の声がほしかったのだと思います。なぜなら、主との深い交わりとは何か満たされることを目的としないからです。
むしろ、自分自身のイエス様の態度が是正されて、正しい関係に入ることのほうが大切だと思うからです。












