主の心を知りたい
人生の節目において、自分がどう進めばいいかわからない時、たとえば、就職や転職や結婚など、そのような時クリスチャンは「主の御心を知りたい」と願うものです。この決断が人生を大きく左右するとわかっているからこそ、踏み出す時に主の心を知りたいの願うのです。
そして、ある人は、祈りから答え頂き、ある人は御言を頂き、ある人はこの両方を頂き、励まされて進んで行きます。僕自身の経験から、この両方があって初めて前に進むべきだとおもっています。
私の心には今平安があるか?
なぜなら、祈りの答えは時に自分の思いが強く反映されてしまう場合があるからです。それは本当に主の言葉なのか?という問いです。それを裏付けるために聖書の御言が必要になるのです。聖書の御言は未来永劫、永遠に変わりません。つまり、これさえ握れば進めるのです。
この二点の答えが入ればあとは自身の心の状態を見てみます。
「私の心には今平安があるか?」
もし、平安があればGOです。なければ、まだ祈り続けなければなりません。僕はずっとこのようにしてきました。ある時は平安が与えられるまで1年以上かかった時もあります。しかし、主は御心に沿った道に進もうとするときに必ず平安をくださいます。
人の心に思い浮びもしなかったこと
とはいいつつも、祈りの中で、これは間違いなく主の答えだと思うこともあります。それはどういう時でしょうか?僕はこの御言に書かれています。
コリント人への第一の手紙 2:9
しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。
これはイエス様の十字架の救いを示しています。主の十字架はつまづきの石ににもなりました。律法学者やパリサイ人はそれに躓き、罪人や犯罪者たちはそれを得たのです。イエス様の罪のゆるしとは、まさに「人の心に思い浮びもしなかったこと」なのです。
主に感謝し、主を褒め称える
クリスチャン生活を送っていて、このようなことはないでしょうか?それは、聖霊に満たされる時に神様の御心に与らせて頂くときです。聖霊に満たされる時、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制に与らせて頂けることがあります。
僕自身にはこれら性質の正反対のものしかないことを知っています。だから、このような僕が思い浮びもしなかったような思いが心に溢れる時に、これは間違いなく主の御心だ、と確信して、主に感謝し、主を褒め称えるのです。
なぜなら、僕は自分が性格も資質も人格も全くダメな人間だと一番わかっているからです。













