0203_あえて悲しみ続けることを選択する人

選択する力

昨日は、刺激と反応の間には隙間があって、どういった反応をするかはその隙間で「選択」できる話をしました。その選択をするのに宗教は関係ありません。無宗教の人でも確固たる意志でよい選択をし続けている人もいると思います。悲しみや苦しみは心の中に変えられないものとして存在しているのではなくて、それは刺激に対して、自分自身が「悲しむという選択」をしているにすぎないのです。

キリスト教は体験宗教であり、個々人がイエス・キリストと心の中で出会うところから始まります。それが、いわゆる、神体験と言われているものであり、その体験は明確で、私たち自身を全く新しく造り変えるほどの体験です。しかし、その体験をして以降、人生は決してイージーになるわけではありません。常にキリストに従う選択し続けなければなりませんし、キリストの聖さに触れることで、自分の罪の大きさをより一層しることにもなります。

その中で大切なのは、体験に依存した信仰ではなくて、自分の「意志」でキリストを選択し続ける信仰です。聖書には神は誘惑されることはないと書かれているので、あらゆる誘惑に打ち勝つ意志の力が必要になります。それはいいかえると「選択する力」ともいえるでしょう。

悲しみを選択する人

以前、ある人をキリスト教会へ案内したことがありました。その方は、夜のお仕事をされており、過去に自分自身の浮気により、相手を傷つけてしまい自分を責めて苦しんでいる方でした。

礼拝が終わりその方に感想を聞いたところ、このようなことをおっしゃっていました。「聖書の話を聞くのは面白いが、キリストを信じることは自分自身の過去を否定することになるので、キリストを受け入れるつもりはない。」

イエス・キリストの命を得るのに唯一すべきことがあるとするならば、それは、「罪の悔い改め」です。自分自身が過去に犯した罪を悔い改めて、180度方向転換して、キリストと共に生きる決心をすることです。

その方は自分の意志で過去の生き方を選択し、「悲しみに浸り続けることを選択」されたのです。

川に浮かんでは消えるあわのような気持ちに対して

ともすれば、僕も同じように自分の意志で神の御心に沿うてないことを自ら選択しているのではないかと思いました。

  • この仕事は自分には向いていない
  • このプロジェクトは早く損切したほうがいい
  • 自分にはこの幸せを得る資格がない
  • 今は神の言葉を伝えるタイミングではない

日常的に様々な思いや気持ちが生起されて一瞬だけ意識されては次々と消えていきます。もし、一瞬でも生起されたネガティブな感情に対して、そのまま放置しておくなら、潜在意識の中でそういった感情がガムのように心の中にへばりついてしまうかもしれません。ですので、できる限りは、生起されたタイミングで潰していく、もしくは、ゆっくり思索や内省する時間を取って、神の御心を求めて、自分の感情を上書きして正しい選択ができるようにする必要があるかもしれません。

そして、なによりも、強力な「選択する力」を付与してくださるのは聖霊の力にほかならないので、聖霊の満たしを求めつつ歩んでいきたいです。