些細なこと
たまに「教会には毎週行かなければいかないといけないですか?」とか「クリスチャンはお酒を飲んではいけないですか?」とか「什一献金はしないといけないですか?」というような質問を見かけることがあります。僕はいつも不思議に思います。
なぜなら、誰も救い得なかった自分の命を贖うために十字架にかかってくださったイエス様の尊い血潮の価値を思えば、こういった質問は本当に些細なことだと思うからです。
掟を守ること
これは強者の論理になるのかもしれません。しかし、本当にイエス様に出会った人というのは教会に行きたがるものだし、イエス様に満たされていればこの世のもので自身を満たす必要もなくなります。こういった書き方はよくないかもしれませんが、什一も安いです。
と偉そうに書いていますが、僕自身冒頭のような疑問を持っていたことがあります。「クリスチャンは〇〇しなければならない」という掟を守ることに重点をおく信仰生活していた時期があるからです。しかし、そういった律法主義から解放してくださったのはイエス様でした。
こうしたい
本当にこの御言のとおりだったのです。
わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立て
ようとする契約はこれである、と主が言われる。
すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、
彼らの心に書きつけよう。
こうして、わたしは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となるであろう。
へブル8:10
自分の外にある律法に「こーしろ!あーしろ!」と言われて、「あーやらないといけない」と思わされるのではなくて、自分の心にある律法が「こうしたい」と思わせるものだったのです。それこそが内住のキリストと呼ばれるものなんだと思いました。
もし、冒頭のような疑問を持っておられるなら、それはイエス様に近づくチャンスだと思います。でも多くの人は言うと思います。「いや俺は救われているし、イエス様は共にいてくださっている」
しかし、厳然たる事実として、本当にイエス様が心の中にいてくださっているならそんな質問は心から湧いてこないはずです。といっても僕自身苦悩した時期があります。それはヨハネの御言と対峙し続けたからです。
すべて神から生れた者は、罪を犯さない。 神の種が、その人のうちにとどまっているからである。 また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない。
ヨハネの第一の手紙 3:9
イエス様と共に歩んでいないかを認めて悔い改める
まずは自身の不信仰と自身がいかにイエス様と共に歩んでいないかを認めて悔い改めるところから始まると思います。それは自然と人を切実で必死な祈りへを導きます。そして、イエス様はそういった人を決してないがしろにされることはありません。
いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、 その名を聖ととなえられる者がこう言われる、 「わたしは高く、聖なる所に住み、 また心砕けて、へりくだる者と共に住み、 へりくだる者の霊をいかし、 砕けたる者の心をいかす。
イザヤ書 57:15