教会によって信仰が左右される?
皆さんは自身が所属している教会によって信仰が左右されることがあり得ると思っておられるでしょうか?僕はかつてそのように思っていたことがありました。それは僕がペンテコステ派をバックグラウンドにもっており、いわゆる海外のメガチャーチと呼ばれるところで自分の信仰が育めたらどれほど素晴らしいだろうと憧れをもっていたからです。
今から思えば僕の母教会は若い世代が比較的多かったほうだったのですが、それでももっと若い世代の、若い世代による、若い世代のための礼拝というものを実現させたいと思っていた時期がありました。それは、楽器等含めて、それぞれの世代でしか表現しえない神への深い飢え乾きの礼拝方法があると思っていたからです。
信仰生活の望みを置くべきは
しかし、よく考えたらこの考えは少しおかしいということがわかります。なぜなら、信仰生活の望みを教会の規模や組織や礼拝の形式においているからです。イエス・キリストは昨日も、今日も、いつまでも変わることがない以上、信仰生活の望みを置くべきお方は信仰の創始者であり完成者であるイエス様だけです。
そう考えるようになってから、自分の信仰の如何は自身とイエス様との関係にかかっていると理解するようになりました。もし、この理解がなければ自身の信仰がうまくいかない時の責任の所在を教会に見出そうとする他責のマインドに囚われてしまう危険性があります。
教会生活で信仰は育まれる
じゃあ、どのような教会でも信仰が育まれるのか?と言えばそれもまた違うと思います。教会は確かにイエス様によって建てられた神の家ですが、教会によってその使命や働きには違いがあるからです。唯一大義で共通しているのが福音宣教であって、それ以外の社会活動や礼拝や祈りに対する態度等は教会によってかなり違いがあるからです。
イエス様との個人的な関係を強固にすることは前提として、教会生活で信仰は育まれていきます。僕が大切にしたいと思っているのはこの御言です。神に召された時の自身の信仰を失わずに信仰生活を送れるのがその人にとっていい教会だと思っています。
ただ、各自は、主から賜わった分に応じ、また神に召されたままの状態にしたがって、歩むべきである。これが、すべての教会に対してわたしの命じるところである。
コリント人への第一の手紙 7:17