1270_結局十字架に立ち返れば赦されるから何したっていいじゃん

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2つのタイプ

クリスチャンには大きく分けて2つのタイプの人がいるように思います。一つは神様は愛のお方だから何をしてもいいと思うタイプです。もう一つは神様は愛のお方でありつつ義なるお方であり、何をしていいわけでもないと思うタイプです。

前者は結局十字架に立ち返れば何でも赦してもらえるから何をしてもいいと考えているタイプです。しかし、これは非常に明らかであるように神中心の生き方ではなく自己中心的な生き方であり、悔い改められていない生き方であり、主と共に生きていない生き方です。

主と共に生きるということは

なぜなら、主と共に生きるというのは、自分のほうに神様をひきつけたり、寄せ付けたりするのではなくて、自分のほうが能動的にイエス様がおられるところに行くことだからです。でないと、サムエル記に出てくるイスラエルの民のように契約の箱はもっていったけど、神様は共におられず勝利できなかったということになります。

実際、神さまと共に歩んでいると思い込んでいる人は多いかもしれません。なぜなら、僕自身が非常に長い間そういったところを通ってきたからです。そして、今もなお、そう思い込んでしまう危険性と隣り合わせだと思っています。なぜなら、立っていると思っている者は倒れないように気をつけないといけないからです。これはつまり、自分はできていると思っている時点で主と共にいないということです。

愛を動機とする

また別の側面から書こうと思います。本当にイエス様を愛しているなら、聖書にかかれていることを実践して神様に喜んで頂きたいと思うはずだからです。

聖書には神を愛するとはすなわちその戒めを守ることと明確に書かれています。戒めを守ると書くと律法主義と言われる可能性もありますが、実際は愛を動機としてそれを守りたいと思うところから出発します。しかし、やってみると実際は守れないです。自分自身に失望もします。

大切なのは、主にあって信仰によって勝利し続けられるというところに立って生きることだと思っています。

似た者になりたい

最後に神様の戒めを守るもう一つの理由は神様が聖なるお方であるように自分自身も聖くなるということです。これを俗な例えで説明します。それは大好きなアーティストがいるとして、そのアーティストの服装や行動を真似したくなるものと似ていると思います。

本当にイエス様を愛しているなら真似したいと思う者なのだと思います。しかし、これは人生をかけた目標になると思います。現実を見れば、微差の積み重ね、遅々として進まないというようなものかもしれません。

しかし、こんなに醜い、朽ちる、弱い、汚い者が栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていくという約束に立って生きることができるのです。

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