本当に神様の御心か?
クリスチャン生活をしていると祈っている時に語られて教えられたり、あるいは日常における経験から神様の御心を教えてもらえることがあります。僕はそういったことをこのブログに書いてきました。しかし、それって少し危険だと思われる方もいらっしゃるかもしれません。なぜなら、僕が勝手に神様の御心だと思い込んでいるだけで、実際は自分の考えである可能性もあるからです。
僕はキリストにあって信仰によって堅く立ち続けると思っていますが、何かのひょうしで一瞬にして堕落したり、不信仰になったりする弱さを持っていることを認めています。だからこそ、日々、時々刻々とイエス様が必要だと思っています。
霊的なチェック機構がある
だからこそ、自分が思ったりしたことを書くときにそれが果たして正しいことなのかと思うことがないわけではありません。
しかし、信仰生活を送っていると2つのパターンによって、それが正しいかどうかに関して霊的なチェック機能が働いていることを確認しました。その2つのパターンを書きたいと思います。
- 祈りや日常生活の中で教えられたことが聖書にも書かれている
- 聖書で読んだことを日常生活で体験する
①はつまり、僕が祈りや日常生活の中で教えられたことが本当に神様からのものであれば、必ず聖書にも書かれているということです。逆に言えば、僕が言っていることで聖書に書かれていなければそれは僕の言葉であるということです。
一方、②のように聖書で知ってそれを実践して本当に神様は真実なお方であったと体験するパターンも多いと思います。確かにこれまで何度も「ゆるしなさい」とか「罪から離れなさい」とか「捧げなさい」とかの言葉を実践して、神様が真実なお方であることを体験してきました。
御言と祈り
このように御言と祈りは車の両輪のごとく非常に大切です。それは4WDの車のようであるかもしれません。もしそれぞれが動力をもっているのであれば、沼であれ、岩肌であれ、荒野であれ、丘であれ、走り続けることができるからです。
正直、信仰の道は信仰によってキリストにあって勝利できるものですが、世にあっては肉にあって歩んでいるので決してたやすいものではありません。本当に狭い門から入るものなんだと思います。だからこそ信仰の道を進んで行くには改めて御言と祈りいずれも欠かせないと実感しました。