言っても意味のないこと
最近自分で自制を働かせる訓練を受けている分野があります。それは非建設的なことを心で思ったとしてもそれを口に出さないということです。日々、生活していると納得のいかないことや理不尽なことさえ起こってくると思います。日常生活をしている以上、そういった感情が心にやってくることは避けられないものですが、それに対してどのような態度を取るかは選択できます。
非建設的なこととは、不平不満などだけではありません。状況を鑑みて確かに言っていることは正しいと思えることでも、言ったところでしょうがないことも非建設的なことに含まれます。
言ってしまいそうになる相手
そういったことを言ってしまう相手は自分にとって身近な人だと思います。自分の家族や仲のいい友人などには話せば共感してもらえる可能性が高く話していいと思ってしまうことがあります。しかし、話しても非建設的なことに関しては自分の中で処理するにこしたことはありません。
なぜなら、思っている段階ではメモリに生成されたものにすぎないですが、人に話してしまうことによってハードディスクに書き込まれるが如く、脳内に書き込まれてしまうからです。つまり、ネガティブな感情がより強化されてしまい、メモリが奪われてしまうのです。PCのメモリが占有されるとPCのパフォーマンスが落ちるように、そういった感情に支配されると人生を少しずつ既存されてしまうのです。
つぶやいてはいけない
聖書にはこのように記載されています。
すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。
ピリピ2:14
つぶやくことをせずに、今自分に起こっていることは神が自身に起こることをゆるされたから起きているのだと信じて神に頼って生きるようにということだと理解しています。しかし、僕はつい、つぶやきそうになってしまう弱さがあることを知っています。それは特に家族に対してだと思います。だからつぶやかずに、まず神様のところに行く訓練を受けているのだと思います。
心を守る
聖書にはまたこのように記載されています。
油断することなく、あなたの心を守れ、
命の泉は、これから流れ出るからである。
箴言4:23
聖書の別の箇所には泉には苦い水を出しつつ、甘い水を出す泉はないと記載されています。しかし、僕の心はいかに時に苦い水を出し、時に甘い水を出していることだろうと思います。
口に出したいと思った瞬間に「主よ、助けてください」と叫び悔い改めて油断することなく自分の心を守る者でありたいと思いました。