1131_本田弘慈先生の「聖化の恵み」という本を読んで

本を読むにも導きがある

先日、本田弘慈先生の「聖化の恵み」という本を読む機会を与えられました。僕は本を読むことに関しても主の御心の導きを信じています。なぜなら、これまで何度も「今この本が読めてよかった」「今の自分に必要だったことはこの本に書いてあった」ということがあったからです。

多くの本を簡単に手に取れて読める現代において、それに食指が動くということ自体、自分の本能がそれに対して関心を強く抱いているのだろうと思います。

二つの思い

僕にはずっときよめられたいという思いと、これだけはきよめられたくないという二つの心があることを知っていました。そして、そのような状態であっても「現時点では」、まぁうまくいっているので、このままでいいとさえ思っていました。

しかし、神様は僕がすべてにおいてきよめられることを望んでおられます。そのきよめの目的は僕に対して無理くりとても負えないくびきを負わせて、苦労させるためではなくて、幸せになってほしいと思っておられるからだと信じています。

清めに関する知識

そのような二心でありつつも、このままではいけないというあいまいな状態の時にこの本に出合ってスイッチが入ったのです。本書によって「きよめ」という言葉の解像度があがり、なぜ求めるのか?それは何をもたらすのか?どう理解すべきなのか?などがよりはっきりとわかりました。

特に僕は今きよめ派の教団に所属していますが、バックグラウンドはペンテコステ派にあります。これまで、きよめの第一歩である聖霊のバプテスマを受ける時には異言を伴うというように教えられてきました。

体験するもの

しかし、自身が信仰生活を送る中で、必ずしもそうではないと思うようになりました。僕は異言は現代にもあると信じていますが、その現象がもれなく全員に起こるかどうか?という点においては疑問だと思っていたのです。

この本ではこの点に関して非常にバランスの取れた書き方がされていました。そのため、聖霊のバプテスマに対してすっきりとした理解ができたのです。またこの書籍では多くの先生が聖霊のバプテスマを受けたときの体験の証が記載されていたので、聖霊のバプテスマは単なる教義内に収まるものではなくて、一人ひとりの中で実際に起こり、そして、体験するものなんだと確信しました。

ある問いかけ

最近、祈っている時にこの御言が聞こえてきます。

「きよくなりたいのか?あなたはきよくなりたいののか?」

僕は声を大にして「きよくなりたいです!」と言えない自分の深い闇があることを知っています。しかし、僕は確かにきよくなりたいのです。この書籍を読むことによって、その小さな願望が明確になりました。

多くの先生が一人部屋にこもって、時には屋外で何時間も祈ったように僕もそのようにしたいと思いました。

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