0762_神が喜ぶ祈りと喜ばない祈り

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神が喜ばれる祈り

神様が喜ばれる祈り、神様に聞かれる祈りと神様がお喜びにならない、神様に聞かれない祈りがあります。もし、主の聖霊に満たされることなく、主と一つになることがなければ、人は自分勝手な祈りしかできません。誰かために祈るとりなしの祈りも、真の意味においては主のご聖霊に満たされない限りはできません。

なぜなら、人間はどこまでいっても、自己中心的で自分勝手な存在だからです。もちろん、この世界にはキリスト教関係なく、利他的に生きている方も多くいらっしゃいます。しかし、見えるところでは利他的と思えても、見えないところは誰にもわかりません。なぜなら、神がお喜びになるのは神の愛から出る行動だからです。

とりなしの祈り

神が喜ばれる、神に絶対に聞かれる祈りとはなんでしょうか。僕もまだまだ祈りの訓練中なので全くわかっていないのですが、「神様が喜ばれている!」と心に感動を感じる祈りがあります。それは、とりなしの祈りです。また伝道のための祈りです。あの人が神様に出会ってほしい。神様に祝福されてほしい。神様の恵を受けてほしい。病の中、悩みの中にある方に主の平安が与えられるように。と祈る時、これは神様に喜ばれる祈りだと感じました。

今でも未熟ですが、以前は仕事が祝福されるように。とかトラブルが起きないように。とか自分のことに関することばかりを祈っていたように思います。周りのために祈っていると思い込んでいるだけで実際はほとんど祈っていないことにある時気づかされたのです。

自分以外の人のために祈ると言っても、ほぼ身内や友人、知人、同僚くらいまでで50名もいないと思います。しかし、ある時から、この地域に「今僕が感じているこの生きているイエス様を知ってほしい。そして、主が共におられることがどれほど恵みと祝福に満ちたことなのかを体験してほしい!」と思った時に次第に祈りの内容が変わるようになってきました。

責任があるから祈るのではないが

またもう一つ僕の中での変化点は、教会で役員の役割を与えられたり、CS教師の役割を与えられるようになったからです。役員になった以上、すべての兄弟姉妹のために祈る責任が生じます。また子供たちの信仰に大きな責任が生じます。そして、それは「役員だからやらないといけない」とか「教師だから重荷をもたないといけない」という動機ではありません。

主の前にへりくだって、「僕にはとりなす愛など到底ありません」と膝をついて祈る時に、主の愛が注がれて祈ることができるようなると感じています。

正直、とりなしの「と」もわかっていない状態ですが、神様が喜ばれる祈り、聞かれる祈りを主の聖霊に満たされてしたいと強く願っています。

おっさん
■神の愛から出るとりなしの祈りは神が喜ばれる祈り

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