0628_キリストが必要のない人

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愛のことば

最近はコリントⅠ13章の御言をよく黙想しています。この箇所はキリスト教の結婚式では必ず朗読される聖書箇所です。

愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
コリントⅠ13:4-6

この箇所は非常に本質的でキリスト的です。なぜなら、イエス・キリストご自身のことを明確に表現している箇所だからです。日本人はともすると愛と聞くと男女間の愛を思い浮かべますが、ここは全く別の愛が説明されています。

愛の意味

新約聖書はギリシャ語で書かれており、一言に愛といっても複数の意味があります。ギリシャ語で男女間の恋愛はエロス、友愛はフィレオ、そして、神の愛はアガペーと言われています。上記聖書箇所の愛はアガペーの愛を指しています。

つまり、このように言い換えることができます。「神は寛容であり、神は情け深い。また、妬むことをしない。神は高ぶらない、誇らない…」

そして、この愛をこの地上で体現されたのがイエス・キリストご自身でした。ですので、このようにも言い換えることができます。「イエス・キリストは寛容であり、イエス・キリストは情け深い。また、妬むことをしない。イエス・キリストは高ぶらない、誇らない…」

イエス・キリストは愛

もし、イエス・キリストが本当にアガペーの神の愛を持っていたのかを確認したければ、新約聖書の四福音書を読めばわかります。この地上でただお一人イエス様だけがこの愛を完璧に体現されました。

もし、イエス・キリストを一人の歴史上の人物として捉えるなら、この事実は僕たちになんの影響ももたらしません。しかし、信仰を働かせてイエス・キリストが神であると信じるならば、今も生きているイエス様が心の中に来てくださり、その愛に触れることができるのです。

なぜキリストを求めるか?

僕が救われたのちもイエス様を求める理由はここにあります。イエス様が僕の中に来てくださることによって、イエス様の愛で生きれるようになりたいからです。なぜなら、僕はイエス様と全く正反対だからです。「僕は不寛容であり、情深くない。また、妬む。僕は高ぶる。誇る..」からです。

こういった周りに迷惑をかけるような人格しか持ち合わせていないので、イエス様を心にお迎えして寛容のある生き方、情け深い生き方、妬まない、高ぶらない、誇らない生き方がしたいのです。

もし、自分にはこのような神の愛はいらないと思う人はキリストが必要のない人です。しかし、おそらく、過去の聖人と呼ばれる人であっても、また素晴らしい人格を備えた人であっても、このような愛を持っている人はいないと思います。

だからこそ、たとえ、この物質的に豊かに見える日本であっても、いつまも、イエス・キリストが必要なのです。

おっさん
■キリストが不要な人などいない

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