読む祈りはありか?
教会が変わってからもう3年以上になるのですが、今の教会に行くようになって違和感を感じたことが一つだけあります。それはお祈りの時に事前に用意していた祈祷文を読む人がいるということです。以前の教会ではこういったことはなかったので、「そんなのありなんだ!」というのが正直な感想でした。
もちろん全員が全員というわけではなく、読む祈りをする人はごく少数で体感的には全体の5%くらいかもしれません。人それぞれ、強みと弱みが違うので、信徒の方で緊張してしまうから書いてきたものを読むというのはありだと思います。しかし、僕が違和感を感じたのは先生という立場であっても読む祈りをされる方がおられるということです。
読む祈りもある
これまで、カトリックなどでは祈祷の定型文が決まっているのは知っていたのですが、プロテスタントの教会で読む祈りがあるというのは知りませんでした。もちろん、聖餐式や献児式など定型文的な決まり文句がある場合、司式者が読む祈りをするというのはあります。しかし、例えば、説教者や司会者が講壇の上で祈る場合に事前に用意したものを読むというのはこれまで見たことがありませんでした。
いいか悪いかは別にして、個人的には、読む祈りがたとえ完璧な構成でバランスが取れていて、文法上の誤りもなく格調高かったとしても、読まない祈りを望んでしまいます。たとえ、表現がつたなくても、緊張でがちがちなってうまく祈れなかったとしても、そのほうが真実な祈りだと思ってしまうからです。
自分の祈り
そもそも、僕が突発的に祈りを当てられた時なんか、毎回緊張しますし、あがってしまいます。お祈りをする以前に「お祈りを指名されるな!」と祈っているくらいです。そんなんなので、日本語もおかしくなりますし、同じ表現を繰り返してしまいます。やたらとイエス様や主を連呼してしまったりします。
しかし、そんなグダグダな祈りであったとしても、儀式的でない形式ではない本音の真実な祈りをする時に神様が働かれるという経験をしてきました。
真実さ
お祈りに大切なのは御霊に導かれることだと思います。家で一人で祈るにしても、公の場で祈るにしても御霊に導かれない祈りは虚しいものです。僕はこれまで何度も言葉だけが浮ついている祈りをしたことがあります。表面的な祈りであったり、時には思っていないようなことも祈ることもありました。そういった不真実な祈りを神様は喜ばれませんでした。
結論は読むにしても、読まないにしても、真実な祈りであれば問題がないということだと思います。