1192_僕の中にあるアシラ像

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まぁこれくらいは大丈夫だろ

僕は、これまで「まぁこれくらいは大丈夫だろ」と思っていたことを完全に遮断することにしました。それは世の中の価値観から言っても道徳的にも別に非難されるようなことではありません。しかし、この世の基準でそうだからと言って神様の目から見て許容できるかどうかは別の話です。

クリスチャンなら誰でも知っている「神第一」という言葉を知っていながら、実際の行いにおいては全く「神第一」にできていないと教えられました。日常生活の中で、どのようにして「神第一」を体現しているのか?日常生活で自分は本当に何よりもイエス様を大事にしているだろうか?それに対して僕はNOという答えしかもっていなかったのです。

日曜日だけ

人が聞いて見栄えのいい祈りはするのに実生活では全く神様なんか求めていなかったのです。どれほど僕の心は他のものに向かっていたでしょう。ある時期はゲーム、ある時期は勉強、ある時期はどうでもいいコンテンツ、ある時はお金、次から次へと興味の対象を変えるにもかかわらず、全く主に対して興味を持っていなかったのです。

せいぜい、日曜日だけです。僕が神様を求めているのはたった1日だけだったのです。むしろ、1日もなかったかもしれません。礼拝のある前後数時間と礼拝の時間のしか主を求めていなかったのです。むしろ、主を求めている風にしていただけなのかもしれません。しかし、そんな僕の態度に対しても、それでも主はその時々に僕に語ってくださっていたのです。

主の聖さにあずかるため

もしかしたら、主に近づくためにこの世で執着している何かを遮断したり、放棄したり、廃棄することはこの世では難しいと思うかもしれません。しかし、主の聖さにあずかるためにはそれをしないといけないことがわかります。

むしろ、あなたがたはこのように彼らに行わなければならない。すなわち彼らの祭壇をこぼち、その石の柱を撃ち砕き、そのアシラ像を切り倒し、その刻んだ像を火で焼かなければならない。
申命記7:5

その祭壇をこぼち、柱を砕き、アシラ像を火で焼き、また刻んだ神々の像を切り倒して、その名をその所から消し去らなければならない。
申命記12:3

僕の中にあるアシラ像

僕は僕の中にアシラ像があることを知っています。そして、それが当然主に喜ばれないものであることも知っています。だから、それがたとえ世の中の価値観から言っても道徳的にも別に非難されるようなものであっても、廃棄し、遮断し、放棄しようと決心します。

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