努力で変えられないこと
これまで主だけが僕を造り変えてくださるお方だと信じていたつもりでしたが、実際はそれは頭の中で思っていたことであって、実際の僕の行動はほとんど自分の努力でどうにかしようとしていたようでした。確かにある程度自分の努力で自分を変えることは可能でした。自分の精神や身体は自分の努力で変えることができました。
しかし、もっとも大切な霊魂である、主の前に自分がどうあるべきか?という一点に関してはずっと闇が僕を覆っていたことを僕は全くしらなかったのです。
行いにおいて満足している
確かに聖書も読んでいる。祈ってもいる。教会の奉仕もしている。誰も僕の闇の部分には気づいていない。日々の仕事、家庭、教会での役割をこなせているので、行いの側面における義によって僕は存在していたのです。最も恐ろしいことに主もそれを許容しているだろうという完全案盲目な状態に陥っていたことでした。
しかし、主は愛してくださっているがゆえに何度もそれを僕に示そうとして下さっていました。僕はこれまでずっと無視で応えようとしてきましたが、主は絶えず、心の扉を叩いて、「開けておくれ、きよくしてあげよう」とドアの外から語ってくださっているのでした。
罪に関して無関心
人間の霊的な部分に関して、罪の問題に関しては、決して人間の努力で解決することはできません。もしできたなら、イエス様は必要なかったことでしょう。この世は罪のゆるしときよさを決して与えることはできません。それは自分自身の修行や努力でも決して手に入れられないものです。
だからこそ、今主の前に自分自身を明け渡したいと思いました。
「主よ、僕はこれまでとても些細なことに対して努力して自分が変わっていることに満足していました。しかし、僕はどれほど自分の罪や聖さに関して全く無関心だったことでしょうか。最も大切にしないといけないことをないがしろにして生きてきたのです。
どうか、そのような私をおゆるしください。そしてイエス様の血潮によって僕の罪をきよめ、新しくしてください。なぜなら、あなたの十字架には僕の霊的側面において、実際にきよめることができるからです。」
新しい、正しい霊を与えてください
み顔をわたしの罪から隠し、
わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。
神よ、わたしのために清い心をつくり、
わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。
わたしをみ前から捨てないでください。
あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。
あなたの救の喜びをわたしに返し、
自由の霊をもって、わたしをささえてください。
詩編51:9-12