悔い改めに関して
以前よりこのブログでは悔い改めについて書いてきました。これまでで悔い改めに関するブログは10ほどありました。
- 1337_悔い改めの頻度はどのくらいがいいのか?
- 1255_悔い改めに導かれるほうが価値があると思ってしまう
- 1239_クリスチャンが成長する秘訣は「悔い改め」
- 1223_人々は悔い改めの説教を渇望していた
- 1111_悔い改めないといけないことがある時は書けない
- 0925_悔い改めるべきことがあるにも関わらず自分は問題ないと思ってしまうクリスチャン
- 0696_悔い改めに導くシステムをフル稼働させていると
- 0555_ソフトデリートならぬソフト悔い改めをしていないか
- 0423_真の悔い改めは容易ではない、もしできるならクリスチャン生活はイージーモード
- 0401_悔い改めの原則
僕がこれだけ多くの悔い改めに関することを書いているのは、まさに僕が無意識の領域において全く悔い改めができていないことを表していると思います。できていないから書く必要があり、悔い改めに導かれる必要があると感じています。
天国は近づいた。
聖書はこの恵みの時代において、決して「天国は近づいた。どうぞお入り!」とは言いませんでした。むしろ、「天国は近づいた。悔い改めなさい。」なのです。人は悔い改める必要のある存在です。悔い改めは神と和解させ、霊的なものを受け取るすべての土台になるものです。
クリスチャン生活においては、感謝、礼拝、祈りは絶対的にかかせまん。しかし、その土台にあるのは悔い改めであり、キリストの十字架の血潮における赦しです。悔い改めていない状態では真の感謝も礼拝も祈りもできないのだと思います。
人と人の関係における悔い改め
そして悔い改めるべきことの中でクリスチャンにとって特に難しいと思うのが人と人の関係における悔い改めです。僕もそうですが、教会の中を見渡しても結構兄弟姉妹間で軋轢があります。深刻な状態になると教会において当事者がいない場で悪口や不平不満やその人を不利にするような発言を耳にすることもあります。
これは決して他人事ではなく僕自身もいつでも陥る可能性のある罪です。実は先日、教会で奉仕の事に関してある兄弟姉妹に指摘されたことがありました。その時僕は心の中で「わかってるよ!いちいちうるさいな!」と思ってしまったのです。
放っておくとやばい
僕はその瞬間に、これは放っておくとやばいと感じました。放置しておくと類焼、延焼して霊的に墜ちていくどころか周りにも迷惑をかける可能性があるとも感じました。そして、すぐに悔い改めました。そして、その日の夜祈りました。誰かに対して苦々しい思いが出た時の対処法はこれです。
「僕は〇〇さんを愛します。そして祝福します。」
たとえ、ある人に対して一時的に腹を立てることがあったとしても愛することを宣言し、祝福するのです。これが一番魂に効きます。イエス・キリストの血潮によって苦々しい思いから解放されます。