0401_悔い改めの原則

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祈りとは

祈りの何を知っているのだと言われるかもしれませんが、僕の中で祈りの体験はイエス・キリストそのものであり、御国そのものでもあります。聖書の中でこのようなやりとりがあります。

神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
ルカ17:20-21

神の国とは、救った神と救われた者の国であり、キリストの愛の関係にある国です。ですから、イエス様は神の国に入るために、罪を悔い改めなさいとおっしゃいました。もし、神の国、つまり、永遠に尽きること、変わることのない神の愛、平安、平和、喜び、楽しみが心にほしいならば、自分の罪を悔い改めないといけないのです。

悔い改めていない状態

僕がよく陥りがちな状況は、「自分は悪くないがあの人が悪い。しかし、自分自身は神の平安はほしい。」というものです。これは非常に自己中心的で、悔い改めが必要な状態です。自分は神に赦されたのに他の人はゆるせていないのです。

あるいは、自分の目には梁があるのに、あなたの目の塵を取り除けさせてくださいと言っているようなものです。自分の罪は認めないのに、相手の罪はしっかり認めるのです。しかし、都合よく、自分は日々の生活に必要な神の助けや平安だけはほしいと願ってるのです。

イエス様がおっしゃったように心に神の国が必要なら、まず悔い改めから始まります。あらゆる、高慢、高ぶり、批判、不平不満、愚痴などが満ちている状態で神に求めることは、悔い改めの原則に反します。日々の歩みの中で、心の中で犯してしまう罪は避けられないので、祈りは殆どの場合、悔い改めから始まるのではないかと思います。

山頂にたどりつくまでに

悔い改めることが分からないという霊的に鈍感な状態になっている場合は、罪を示し、悔い改めに導いてくださいと祈ることをしたりします。神様は愛で満ちているお方ですから、あらゆることを通して、罪を示してくださいます。

もし、ある人が「この悔い改めの過程はだるいし、そんなもの必要ない。」とおっしゃるならば、神の国を味わうことができなくなります。すなわち、イエス・キリストご自身との交わりであり、絶対に失うことがないと確信できる平安、平和、喜び、楽しみに与かれなくなるのです。

悔い改めの過程は非常につらいです。山を登っていくような過程かもしれません。しかし、罪を悔い改めきったあかつきには、主は山頂で神の栄光を観させてくださいます。だから、悔い改めをさけずに前に進み続けることが重要なのです。

■神の国を味わうのに悔い改めは避けられない
■悔い改めは登山のように過酷であるが、最後には山頂で神の栄光を拝することができる

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