1140_塩狩峠の主人公は聖霊のバプテスマを受けていたのか?

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ある人が持っている教義

先日こんなことを思いました。それは「塩狩峠の主人公の生き方を考えたら教派ってどうでもよくなる」ということです。それはつまり、それぞれがそれぞれに主張がありますが、ここ、要、クリスチャンとしてどう判断するか?どう行動できるか?こそが重要だということです。

塩狩峠の主人公は聖霊に満たされていたのでしょうか?聖霊のバプテスマを受けていたのでしょうか?その時に異言を伴ったのでしょうか?伴わなかったのでしょうか?

生き方こそが重要

そういったことはどうでもいいことだとわかります。なぜなら、彼の生き方がキリストのような者だったからです。教義は確かに大切なものでありますが、それよりも大切なのは生き方です。

もちろん、すべてのクリスチャンが殉教するように召されているわけではないので、牧師として教師として信徒としてそれぞれに与えられた使命を生きます。本物のクリスチャンとはおそらく教義を意識させない生き方をしている人なのかなと今は思っています。

教派

普段表面化することはないですが、福音派とペンテコステ派の間では見えない深い断絶があると思います。なぜなら、双方が互いに交流することはほとんどないからです。超教派と言われるものもありますが、実態は一部の教派に限定されていることがほとんどです。

福音的であり、宣教に熱心で信仰に関してはほとんど違いがないように思えるにもかかわらず、大きな断絶がある理由のひとつは、礼拝の形式が大きく異なるということが挙げられるでしょう。

生き方が見れたら

礼拝形式に関して、それぞれに拒否反応を示したり、冷めてみたり、物足りなさを感じたり、違うと感じたりすることがあるかもしれません。以前、何よりも「心を開くことが大切である」とブログに書きましたが、こういった気持ちを持った時点で完全に心を閉ざしてしまっているので、双方が交わることは決してできないのです。

むしろ、それぞれが、それぞれに干渉せずに大切なことを守って福音宣教に励めばいいというのは一理あると思います。無理をして一致を求めると逆に不和が拡大するからです。

そうは言っても、福音派もペンテコステ派も両方を知っている僕からすると双方に双方を補完し合ういいものを持っているのに互いに交流しないのはもったいないと思ってしまいます。お互いが双方の「生き方」を見れるようになれば、きっとその道は開けると信じて言います。

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