イザヤ書11章2節
昨日はイザヤ書11章1節のイメージできない問題を提起してGPTに解決してもらいました。今日は2節に焦点を当てようと思います。クリスチャンであれば誰でも知っている御言に箴言のこの言があります。
主を恐れることは知識のはじめである、 愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。
箴言 1:7
どんな知識を得るよりも、まずはこの天地を創造された聖なるお方を畏れることが重要であるということが書かれています。これは真理だと思います。なぜなら主を畏れない人が使う知識は人を破滅に陥れるからです。人類はダイナマイト、核技術、インターネット、AIなどの知識を持っています。主を畏れない人が使ったらどうなるか?はすべての人が知っています。つまり、どのような素晴らしい知識であっても主を畏れていないのであれば悪用される可能性が非常に高いのです。
あなたは主を畏れていますか?
では、あなたは主を畏れていますか?自分が主を畏れているかどうかはなかなかわからないものです。しかし、イザヤ書11章2節には主を畏れることの大きなヒントが書かれています。それは、イエス様の上に注がれた霊です。それは、「主を畏れる霊」だったのです。
つまり、人間は聖霊によらなければ本当の意味で主を畏れることはできないということです。いくら「私は主を畏れている!」と思っていても、その言動が全く主を畏れていないという場合はあると思います。なぜなら、聖霊によらなければ主が聖なるお方であることは人間には真に理解できないからです。それは人間が霊的な存在だからです。
人間は多くの場合、知識から入る
人間は多くの場合、知識から入ると思います。僕自身もそう思っていました。今は2歳の子供を育てていますが、食前のお祈りや暗唱聖句もはじめています。それらは確かに重要です。しかし、もし僕が聖霊に満たされておらず、主を畏れる霊がなければその子育ては不完全に終わります。
しかし、聖書は違います。主を畏れるためには霊から入らないといけないのです。だからこのように祈りたいと思いました。
「主よ。この世界には多くの知識がありますが、まず主を知る知識を与えてください。
また、この世界には多くの霊がありますが、まず主を畏れる霊を与えてください。」