大は小を兼ねる
大は小を兼ねると言います。実際はどうかはおいておいて、反対に小は大を兼ねることができないということです。では聖書の世界の原則はどうでしょうか?肉は霊を兼ねることはできませんが、霊は肉を兼ねることができます。
兼ねるという表現は決して正確ではありませんが今日はこのことを書こうと思います。
肉は霊を兼ねることはできない
肉は決して霊を兼ねることはできません。どれだけ必死に肉的なことを求めて生きていても霊的なことが満たされることは決してありません。肉的なこととは、言い換えれば古い自分が求めるものです。あるいは、神様の御心から外れたこと全般でもあります。これらを必死で求めても霊的な満足は決して得られません。
具体的に書きます。好きなテレビ番組を見ても、ゲームをしても、映画を見ても、あるいは旅行に行っても、友達と楽しい時間を過ごしても決して満たされることはありません。
もしかしたら「そんな冷めたこと言うなよ」と思われるかもしれません。しかし、それらは刹那的な楽しみです。決して心から満たされたとか心に平安が与えられたとかいう体験ではありません。
なぜなら、誰かが言ったように人間には神の形をした空洞が空いており、神様でしかその空洞を満たすことができないからです。言い換えれば、天の父が惜しみなく与えてくださった神の子イエス・キリストの十字架による行動の愛でしか満たされることはありません。だから決して肉的なことによって霊の満たしを得ることはできないのです。
霊は肉を兼ねる例①
では、霊は肉を兼ねるのでしょうか。これは聖書にこのように書かれています。
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
マタイによる福音書 6:33
神を第一とする時に、この地上で肉に属する必要なものが与えられるのです。これにはいくつかの例を出してみたいと思います。一つ目は什一献金です。最初に書いておきますが、10分の1を神様にお返しすることは決して神様からのリターンを求めて捧げるわけではありません。神様が受けるにふさわしいお方であるから何の見返りもなしに捧げるだけです。
しかし、実体験として什一には確かに神様の祝福があるのを体験しています。一つ目は生活が研ぎ澄まされます。必要なことに専念させ、不要なことはどうでもよくなります。また、物欲に束縛されなくなります。こういう書き方はどうかと思いますが、什一によって実際的に出費も抑えられる生活になり結果什一以上の金額的メリットがあると感じています。これが霊は肉を兼ねると理解しています。
霊は肉を兼ねる例②
二つ目は、神様のために奉仕した1日は自分の好きなことをして過ごした1000日に勝るということです。神様のために過ごした日は食べるごはんはいつもよりおいしく感じられます。神様のために過ごした日はどこを散歩しても景色が美しく見えます。
もしかしたら、これはお前の主観だろと思われるかもしれないのですが本当にそうなのです。これが霊は肉を兼ねるの例の二つ目です。みなさんはいかがでしょうか。もし霊は肉を兼ねるの体験があれば教えていただけると幸いです。