1737_良い説教とはどういうものなのか?

良い説教とは

僕は牧師でもないし説教者でもないしこんなことを言える立場ではありません。しかし一信徒として「良い説教とはどういうものなのか?」はなんとなくわかっているkがします。良い説教とは決して恵まれる説教や感謝に満ち溢れる説教でもありません。僕が思う良い説教とは「悔い改めに導く説教」です。

なぜなら、悔い改めがなければキリストの十字架は必要がなくなってしまうからです。悔い改めた結果、キリストの十字架から恵みが流れてきて、感謝が満ち溢れるのです。イエス様の救いの道を備えたバプテスマのヨハネの説教も悔い改めでした。

悔い改めのない生活

それは賛美も同じだと思います。誤解を与えるような書き方になりますが、賛美で大切なのは決して恵まれることや感謝を捧げることではないと思います。なぜなら、人はへりくだり、悔い改めてはじめて主を本当の意味で賛美することができるようになるからです。

だから、僕はいつも気をつけなければならないと思っています。なぜなら、僕は時に悔い改めなしで賛美をしたり奉仕をしたりしようとするからです。そして、実際に悔い改めなしでそういったことはできてしまうから恐ろしいのです。それは、最悪の場合、心の伴わないただの宗教行事となってしまいます。

悔い改めたくない

そして、僕は自分が出来る限り「悔い改めたくない」と思っていることも知っています。なぜなら、自分の肉は自分が悪いことを認めたくないからです。それは洗礼を受けて聖霊に満たされる体験をしたあとも同じです。

依然として、日常生活を送る中で時々刻々と「主と生きることを選ぶのか?自分のやりたいことを選ぶのか?」の選択に迫られるからです。その選択の中で、ほぼ無自覚のうちに「悔い改めたくない」という選択をしている自分がいるのを知っています。

教会へ行く理由

だから、僕は教会に行かないといけないと思っています。それは、説教によって教え、戒め、正しくされる必要があるからです。人は悔い改めることではじめて、正しい義の道に戻ることができます。だから説教を聞くときはぼーっと聞くことはできません。それは聖霊が働き自分が気づいていない悔い改めるべきことを示してほしいと思うからです。

クリスチャンは感謝、喜び、平安、愛に与る特権を得ています。しかし、その前提には必ず悔い改めがあるのです。僕は自身がそれを見逃しやすいとわかっているからこそこのようなことを書きました。

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