主の前に降参
主は思いを見られてそこに働きかけてくださるお方です。僕は主のために生きたいと思っていても自分の罪から逃れることはできませんでした。頭ではわかっているのにやめられないというものです。自分の努力でそこから逃れようとすればするほど自分自身に失望して、自分の信仰はなんてだめなんだと弱気になることがありました。
しかし、「僕の力では罪から逃れることはできません。主の前に降参します。」と祈った時に、主が確かにその思いに働きかけてくださったことがわかりました。そして以前はどうしても逃れることができなかった罪を気にもしなくなったのです。
罪を完全に断ち切る力
十字架には罪を赦すだけではなく、現在の罪を完全に断ち切る力が本当にあります。確かに僕が10代の時に救われた時、主は多くの罪から僕を解放してくれました。しかし、その事実は大人になるにつれて完全に薄れてしまっていたのです。僕は生きれば生きるほど聖くなるのではなく、むしろより自己中心的に生きるようになっていたと思います。
そういった過程を通して僕は次第に主は過去、現在、未来のすべての罪を赦してくださいますが、現在囚われている罪を断ち切る力はないと思っていたことがありました。
赦しに焦点を強く当てすぎる
しかし、主が2000年前になされたわざは確かに現在の罪から解放し、罪の奴隷から解放し自由を与えてくださるのだと再び確信するようになりました。それは主が今も確かに生きていて罪で苦しむ僕たちを決して見放すことなく解放を味わせてくださるという神の大きな愛でした。
ともすれば、人は主の十字架の赦しに焦点を強く当てすぎてしまい、主の十字架には罪を断ち切る力があるということを見逃ししまうことがあるかもしれません。そのような信仰になれば、失敗しては悔い改めて失敗しては悔い改めてを繰り返す信仰生活になってしまいます。僕はそのような生活を非常に長くしてきてしまいました。
主は思いを見られる
冒頭の言葉に戻りますが、主は思いを見られてそこに働きかけてくださるお方です。今、わかっちゃいるけどやめられない罪、努力でどうにかしようとしているけでど逃れられない罪があるならば、主の前に降参することが救いの一歩です。
主は罪から逃れたいという思いを見られ、それをないがしろにされません。もし、「主よ、罪から逃れることのできない哀れな私を憐れんでください。主の十字架には私の罪を断ち切る力があります。」と主の前に出るならば主は必ずその罪から解放してくださると信じます。