主に感謝する
先日お風呂に入って全裸で跪いて祈っている時にこのようなことを思いました。
それは、僕が今日一日主と共に歩めたことを主に感謝する時に主がそれを喜んでくださっているということです。
確かにそうだと思いました。僕には息子がいますが、もし息子が「今日は最悪な一日だった」とか「今日ほどつらい一日はなかった」というならば、親である僕はきっと心が痛むだろうと思いました。親は子供がいい一日を過ごしてほしいと望むものです。
主は最も良いもので自分の子供たちを満たしたい
にもかかわらず、僕のこれまでの1日の終わりはどうだったのか?と思いました。これまで比較的「疲れた」とか「しんどかった」とか「腹立つことがあった」とわざわざ祈りで言わないにして、そのように思って1日を終えていることが少なくなかったかもしれないと思いました。
主は僕がそのような心でいることに心を痛めておられたと思います。主は最も良いもので自分の子供たちを満たしたいと願っておられます。
あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。
ルカ11:11-13
十字架の血潮によって罪が洗い清められて、主に近づける
そう思った時に、今日一日過ごせたことをもっと神様に感謝しようと思いました。主と共に歩み、主の助けの中で歩めることが最も幸いなことで感謝なことです。また1日の終わりに今日もイエス様の十字架の血潮によって罪が洗い清められて、主に近づけること自体が感謝なことだとも思いました。
祈る習慣が身につかない以前は、つまらない何の益にもならないコンテンツをだらだら見て疲れて眠りにつくことが多かったですが、主と交わりたいと願うようになってからは、魂が満たされた状態で眠りにつくことができます。