1020_肉の割礼と心の割礼

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肉の割礼

旧約聖書には割礼という儀式が出てきます。

割礼(かつれい)とは、男性もしくは女性の一部を切開あるいは切除(場合によっては性器口を封鎖)する外科的施術を指す。

引用元:wikipedia.org

聖書では男性の前の皮を切ると書かれています。キリスト教徒で割礼をする人はまずいないと思いますが、ユダヤ教やイスラム教の方などは割礼をされているそうです。僕が以前勤めていた会社の上司はインドネシアのイスラム教の女性と結婚したのですが、結婚するために割礼をされたそうです。病院に行って皮を切除する手術をし証明書を発行してもらったそうです。割礼は現在でも確かに行われているものなのです。

心の割礼

肉の割礼には清潔になるとか子孫繁栄などの目的があるようですが、肉の割礼があれば霊の割礼もあります。旧約聖書の出来事は新約聖書で成就することの青写真になっていることが多いですが、この霊における割礼は既に旧約聖書に記載されています。

今朝、申命記を読んでいたのですが、このような記述がありました。

あなたがたは心に割礼をおこない、もはや強情であってはならない。
申命記10:16

霊の割礼とは心の割礼のことであって、それは神様に対して強情になるのではなくて、神様に対して従順になること。そして、神様の御心に敏感になることだと思いました。

心の割礼の具体的なこと

僕なんかはイエス様に個人的に出会う前は、今以上に自分のことばかり考えていて他人のことなど考えてもいませんでした。そして、神様に対して強情そのもので自分勝手に生きたいと思っていました。

しかし、イエス様に出会ってから変わりました。それは自分で自分を飾らなくていいとわかったからだと思います。自分を亀の甲羅のように守る必要がなくなったからだと思います。つまり、イエス様に出会うことで心に割礼が行われ、自分自身を神様の前にありのままでさらけだすことができるようになったのです。

心の割礼によっておこる変化

起こった変化は自分を飾る必要がなくなっただけじゃありません。イエス様が共にいてくださることによって、イエス様の思いと一体化して、少しは他人の悲しみや痛みを自分の痛みや悲しみとして感じれるようになったことです。以前は無感覚で他人のことなどどうでもいいと思っていたのです。

僕はまだまだ御霊によって生きることに関して不十分であるため、いつもイエス様の思いと一体化して生きれているわけではありませんが、心に割礼を受けたものとして、人の痛みや悲しみや悩みや苦しみを無感覚で無視するのではなく、それを一緒に感じれる者に造り変えられたいと思っています。

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