説教の奉仕
先日は教会のCSで数か月に説教をしたのですが、とても魂が恵まれる体験をしました。説教の奉仕はとても不思議です。仕事だと準備したら準備した分だけのパフォーマンスがでますが、説教の場合は必ずしもそうじゃありません。
もちろん、人間の側としての責任として準備することは求められますが、準備の質や長さに比例していい説教ができるとは限らないというのが自身の経験です。
むしろ、しっかり準備して万全で心の余裕をもって臨んだ時よりも、もうこれは神様により頼むしかない、という状況に追い込まれた時に聖霊の助けがあって語れたということも少なくありません。
悔い改めから始まる
説教といっても、説教のガイドラインに沿ってそのまま語るわけではありません。その一つの理由としては、自分が消化できていない、自分が実行できていない御言を語ることはできないからです。
またその人にしか語れない御言があります。同じ御言であったとしても神様がその人を通して語られることは様々です。もしそうでなければ、わざわざ僕が説教しなくても名説教者の説教をYoutbeで流せばいいのです。でもそれは神様の方法とは異なります。
神様は神の家である教会でご自身の栄光を表されます。だから、その教会においては、その教会に所属する人たちによって建て揚げられるというのが大原則だと思っているのです。
すっぽんぽんの状態
情けないながら、僕の場合は、聖書が語っていることに対して強い悔い改めが即されて、自分には語る資格がない状態に追い込まれます。つまり霊的にすっぽんぽんの状態になって聖霊によらなければ、私が語ることすべては空しいという状態にさせられることがほとんどです。
そうなっていない状態で準備を進めたとしてもあとから大幅な変更が入って作り直しということがこれまで多くありました。説教の準備(実際的な準備や祈りによって整えること)の段階で自分を正しい位置に戻してくれる御言があります。
花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。こうして、この喜びはわたしに満ち足りている。彼は必ず栄え、わたしは衰える。
ヨハネ3:29-30
主の後ろ側に立つ
この御言は僕が奉仕に向き合うときに必ず宣言する御言です。イエス様が前に立ってイエス様だけが高くあげられて僕自身は陰で見えないという存在になりたいと願っています。