0845_救いの証

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神は人生に介入されるか?

僕は17歳の時にイエス・キリストに出会う体験をしました。クリスチャンホームで育ったので、もちろん、それまでも神という存在は信じていました。ただ、私の人生に直接介入されることはないと思っていたのです。ようは高いところにおられ、近づきがたいところにおられる方だと思っていたのです。

そもそも、目に見えないお方が目に見える存在に介入されること自体が信じられなかったのです。神は聖なるお方であるがゆえに、自分みたいな汚い存在は目にも留まっていないだろうと思っていたのです。

自分という存在の不確かさ

高校生の私は自分という存在の不確かさに不安を抱いていました。当時、私の家に友だちが大勢遊びに来ることが多くありました。朝方まで楽しい時間を過ごしたとしても、みんな帰ってしまったら、そこには自分一人しか残っていないということに虚しさを覚えたのです。

つまり、どれだけ仲のいい友だちであっても、自分にとっては結局、不確かな存在に過ぎないと思ったのです。それから、神様に切実な思いで祈るようになりました。それはこのような祈りでした。

「もし、あなたが本当におられるなら、私に出会ってください。」

ある賛美

ある日、教会のこども向けのイベントにスタッフとして参加しました。そこでは「両手いっぱいの愛」という賛美が歌われていました。これまで何度も聞いたその賛美の歌詞を聞いた時に、私の張りつめていた心が解き放たれて、涙が止まらなくなりました。

ある日イエス様に聞いてみたんだ
どれくらい僕を 愛してるの?
これくらいかな? これくらいかな?
イエス様は黙って微笑んでる

もいちど イエス様に聞いてみたんだ
どれくらい僕を愛しているの?
これくらいかな? これくらいかな?
イエス様は優しく微笑んでる

ある日イエス様は答えてくれた
静かに両手を広げて
その手のひらに くぎを打たれて
十字架にかかってくださった

それは僕の罪のため
ごめんね ありがとう イエス様

僕が存在する理由

そして、それまで決して僕の人生に介入されるはずがないと思っていた神様がこのように語りかけてくださいました。

「私はあなたの孤独も、悩みも、悲しみも、辛さも、ぜんぶ知っている。そのために私は十字架にかかったのだ。」

それ以来、私の存在は神様によって確かなものとなりました。このお方こそが私を永遠に変わらない愛で愛してくださっていることがわかったからです。このお方の存在だけが僕が存在する理由です。このお方だけが僕の永遠の慰めであり、友であり、主人です。

「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し 変わることなく慈しみを注ぐ。」エレミヤ31:3

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