0846_牧師になりたいとは思わないが牧師のようにはなりたい

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師として仰いでいる先生たちは

僕は牧師になりたいとは思いませんが牧師のようにはなりたいと思っています。宣教師になりたいとも思いませんが宣教師のようにはなりたいと思っています。それはどういう意味かというと、僕が知っている師として仰いでいる牧師先生や宣教師はもれなく人格が素晴らしいということです。それは海の中、火の中を通り、神の試練の中で精錬された金のような人格です。

その人格の基本は謙遜を土台としています。どんな時も自分を出すことなく神様に栄光を帰すことが当たり前のようにされている方たちです。そして、嵐の中、荒野の中、試練の中を通る時でも、どんな理不尽なことが起きてきたとしても動揺することなく神に信頼し続ける器です。

神に満たされている

こういう牧師先生を見ていると本当にかっこいいなと思います。結局この地上では、お金をどれだけ稼いでもどれだけ土地を手に入れても、自分が死んだら子孫に残すのみで、自分には何も残すことができません。唯一残すことができるとすれば、神と共に過ごした時間、神のために働いた時間、そしてイエス・キリストの似姿にどれだけ近づいたかだけのような気がしています。

そして、こういった先生たちはもれなく地上のことに全く心が惹かれておらず、ただただ神様だけを求めておられるのです。それは先生方が神様によって満たされているからだと思います。満たされているからこそ他のもので満たす必要がない。つまり、食べることに関しても、着ることに関しても、住むことに関しても、一切関心がないのです。

自分にある多くの課題

なぜ僕が「牧師のようになりたい」かと言うと僕が非常に煩悩的だからです。神様を求めているとは言いつつも、他のものも求めているのを知っているからです。服装や住まいにはこだわりはありませんが、食に関しては食べすぎたり、間食が多かったりしてしまっています。また、他のことでも神様以外のものを求めている自分がいるのを知っています。

それを禁欲的にやめるというのではなく、神様に満たされているからそれらのものが不要な状態になりたいのです。

突破口

今年僕がチャレンジしたいと言ってまだできていないことがあります。それは断食祈祷です。別に自分に苦行を課して、自分を制するということをしたいのではなくて、断食によって神様により一層近づくということをしてみたいのです。8月には連休があるので、その時になんとか調整して1日の断食祈祷をしたいと思います。

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