1211_ペンテコステ派の教会から福音派の教会に行くようになって受けた主の取り扱い

教会が変わって

僕は3年前から事情があってペンテコステ派の母教会から福音派のこれまで全くかかわりのなかった教会に行くことになりました。福音派の教会は僕にとって決して遠い存在ではありません。中国にいた時お世話になった日本人教会は長老派で、3年間通っていた中国の家の教会は福音派でした。今から思えばその頃から今に至る準備がなされていたのかなとも思います。

これまで僕はこのブログで福音派の教会に行って何を感じてどう思っているのか?をほとんど書いてきませんでした。一方、ペンテコステ派についてどう感じているのかについてはこちらに書かれています。

1057_ペンテコステ派に対する誤解や偏見の原因

しかし、この3年間で主が僕をどのようなところに導こうとされているのかがおぼろげながら少しずつ見えてきたので書こうと思いました。

自分とイエス様との関係

まずは僕はどっちの宗派がいいとか、あっちがどうのこうのとかは話す気がありません。僕が気にしているのは2点だけです。それは自分とイエス様との関係と自身がおかれている教会でどのように仕えていくか?だけです。

この3年間の信仰生活は手探りのような状態でした。それは僕がこれまでやろうとしなかった、むしろ、気にすることもなかったことに取り組むことになったからです。それは、平日の信仰生活に焦点を当てるということです。

平日どのように主と歩むか?

僕はこれまでずっと日曜日に魂が恵まれて月曜日から土曜日にかけて霊的に疲れ果てて、また日曜日に教会に駆け込んで力を得るというような生活をしていました。もっと具体的に言えば、日曜日はクリスチャンらしく奉仕して祈って、平日は自分の好きなことをして生きていました。内心はそういった生活も悪くないと思っていました。

しかし、今の教会に行くようになってから主からチャレンジを受けることになりました。それは平日どのように主と歩むか?そしてどのようにして自身の霊的な祈りの神殿を再び建て上げるか?ということでした。

祈りによって引き出していく

教会での奉仕において祈っても、明らかに霊的に突破できていないことに悩むこともありました。CSで自分が語っている言葉は表面的になっており、浮ついた言葉になっていると感じていました。それは最初にも述べたように自分とイエス様との関係が薄くなっていたからにほかなりません。

それから、主の取り扱いを受ける中で次第に自分の個人的な信仰生活は教会生活に確かに密接に結びついていると確信するようになりました。それは、表現が難しいのですが、イエス様がこの教会でなされたいことを個人的な祈りによって引き出していくとです。もちろん、神様が主権をもっておられ、神様はいつでもご自身がなされたいことをすることができ、そこに少しの人間の力も必要ありません。

どこの教会でも変わらない

しかし、アブラハムがとりなしの祈り手であり、主のご意志を変えたように祈りによって神様の御わざを引き出すということは人間に求められていることだと強く思うようになりました。今もなお目指しているのは、平日における祈りの生活であり、今おかれている教会でどう仕えるかです。

主は昨日も今日もいつまでも変わることがないように、どこの教会でも変わらないということです。

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