福音宣教は主の働き
福音宣教は主の働きであり、聖霊が働かれないとイエスを主と告白できません。しかし、福音宣教は確かに社会情勢や文化やその国の人の行動様式の中で行われるものであるとも考えています。社会情勢に関して、日本においては戦後、アメリカからの宣教師の働き等によって大きく福音宣教は前進しました。当時はドルから見たら円は安かったので福音宣教に投資できる資金も潤沢にありました。
そして、戦後の貧しい中で地方から都会に出稼ぎにきた労働者の多くが福音を受け入れてイエス様を救い主として受け入れたのです。これは福音派やペンテコステ派に限らず同じです。戦後から教会数や信徒数が一気に増加して成長している期間があるのです。
時代の流れ
僕が中国に行っていた時期はまさにこの現象と全く一致していました。中国の広東省にいた時期がありますが、教会にいた多くの人は広東省出身の人ではなく地方から来た人が多かったです。それは、そこには中国全土から都市である広東省に労働者が集まってきていたからでした。身内を頼ってきているものもあれば、一人できている人もいます。そういった人たちは故郷を離れたゆえの寂しさや金銭的な欠乏という問題をかかえていました。
福音はそういった人たちの飢え乾きに応えて渇いた魂をキリストの愛によって潤していきました。当時僕が通っていた地下教会は1200人ほどの信徒の方が集まっており、1日に3回の集会がもたれていました。前年比何十人~何百人というペースで急成長していました。
それは確かに時代の流れもありますが、人と人との距離が短い中国人のコミュ力の圧倒的な高さもあったからだと思います。
主は時代の流れに左右されない
このように神様の働きによる福音宣教は確かに時代の流れの中で行われています。福音宣教が時代の影響を受けているというよりも神様がそういった時代の中で働かれているということだと思います。
じゃあ、今の日本はどうでしょうか。人口は減少傾向にあり、実質的なGDPの成長もマイナスになっています。時代の流れとしては先細りを思わせるような流れになっています。しかし、主はそういった時代の流れの中でも主の働きをしてくださると信じています。
悔い崩れた膝をもって
ともすれば、人は過去のリバイバルを見て、これからを見ようとしてしまいます。しかし、これからのリバイバルは誰も経験も見たこともないものだと思います。そのために祈り続けますが、僕自身は一人の先に救われたクリスチャンとして、悔い崩れた膝をもって主の前にいつもへりくだり続けられるように祈っています。