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主のやり方は毎回違う
昨日は、人は過去のリバイバルを見てこれからを見ようとする傾向があると書きました。それは言い換えれば、過去の現象や方法をもってしてこれからのリバイバルを人間的に見るということだと思います。過去の人の集まり方や祈り方や集会の持ち方や雰囲気などでどうしても見てしまうのです。
それは僕が日常的に経験していることです。奉仕一つとっても主のやり方は毎回違います。以前この方法でいけたからといってそれで臨んでしまうと、時に神様の御心、聖霊の流れから外れたことをしてしまうことがあり得ます。
人は決まりきったルーティンが好き
人は往々にして決まりきったルーティンが好きです。そのほうが安心できるからです。しかし、主は人間がその決まり切ったルーティンに安心してしまって、主により頼まなくなることを喜ばれません。どのような奉仕であっても、へりくだって主により頼むことこそが重要だからです。
僕はこれまで何度も前回この方法で恵まれたから今回もそのような態度や姿勢で臨もうと思ったことがあります。あるいは以前この方法で祝福されたから今回も同じ方法で奉仕に望んだこともあります。理由としてはそのほうが自分が安心できるからです。
それが神様のご意志に通用しないということは経験からわかっているはずなのに、そっちにもっていかれてしまうことが多いです。
ご自身だけにより頼む器
しかし、主が望んでおられるのはご自身だけにより頼む器であって、安心して自信満々で主に仕える器ではありません。自身満々で安心しきって奉仕するのであれば、やらないほうがましです。
僕はすごく愚かななので割と毎回同じ過ちをしてしまいます。しかし、その安心はだいたい奉仕の1日前とかに全く砕かれてしまいます。そして、冷や汗が出るほど焦ってしまって全き信頼をもって「あなたが働いてくださらなければ私のやることはすべて虚しいです。」という境地に至ります。
時々刻々と全き信頼
一番は最初から「あなたにすべてをゆだねて臨みます。」という姿勢で臨めればいいのですが、僕にはまだまだへりくだる訓練を受けている最中なので、それができていません。
特に思わされているのは、決まりきった方法というのが必ずしも具体的な方法とは限らないということです。それには主との関係も含まれます。当然ですが、今週はこれだけ祈って聖書を読んだからある奉仕が恵まれるというわけでもないのです。
全き信頼が時々刻々とできるように祈っていきたいです。