重くて難しい決断
最近は家族のことに関して難しい決断を迫られることが多いです。赤ちゃんのことで医者から判断を迫られる度に夫婦それぞれが主に向き合って祈ります。それから、嫁さんと向き合ってそれぞれ得た答えを話し合い、夫婦としての結論を出します。
僕は人生で必ずしもすべての人が体験するわけではない重くて難しい決断を迫られました。もちろん赤ちゃんを下す選択はありません。しかし、赤ちゃんの将来と生死に関する決断は僕には重すぎました。
結論は一致
もし僕が一人だったらきっと結論はだせなかったでしょう。しかし、まず主が確かに祈りの中で聖書を読む中で御言によって語ってくださいました。僕がどうして決断をすればいいのか、あるいはそれをどうやって言語化すればいいのか、またそれをどうやって伝えたらいいのかわからない中でも主は教えてくださったからです。
そして、それを嫁さんに話します。これまで2度、重要な決断をしないといけないことがありましたが、そのすべてにおいて僕たち夫婦それぞれが出した結論は一致していました。僕と嫁さんが性格が真逆で趣味も全く違うのに、ここぞという時には一致できるのです。これは主が共にいてくださっているからにほかなりません。
あなたを捨てない
僕は今自分たち家族が通っている試練に関して主の御心は全くわかりません。しかし、その中にあっても主の存在を体験するのです。こんな状況はたから見たら、「主に見捨てられているような状態じゃないか」、あるいは「主は僕たちの祈りを一切きいてくれてないではないか」と思えることかもしれません。
しかし、不思議なことに主はいつも存在を表してくださいます。そのことからも主は僕たち家族を決して見捨てられたわけではないことがわかります。
ヘブル人への手紙 13:5
主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。
主の現れ
その主の現れは礼拝における主のご臨在ではないかもしれません。恵まれた礼拝におけるある種の霊的な高揚感や満足感はないかもしれません。しかし、主は確かに共にいてくださっているということを教えてくださるのです。
僕はこのことを知っています。すべての信仰者はこの地上で約束のものを受けていなかったということです。この地上のことがすべてなら失望しかなかったかもしれませんが、僕には、はるかに望みみて喜ぶものがあります。
ヘブル人への手紙 11:13
これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。