ブログをやめようと思った
ここ2か月、僕はこのブログを何度かやめようと思ったことがあります。今ある試練の中でとてもじゃないけど信仰的なことは書けないと思うようになったからです。これまで1500日ほど続けてきたから続けたいという気持ちもなければ、毎日書かないと自分への自信がなくなるとかもありません。そんなものはどうでもいいと思っています。
これまでも書けないと思う時がありました。しかし、主に向き合えばネガティブなことであってもキリストにあって変えられて比較的いい具合に着地することができていました。しかし、今回の出来事は主に向き合うことすら難しくなってしまったのです。
事後的に書きたかった
ようはいいところに着地できることを書けなくなってしまったのです。これまでは主の前に嘘偽りのない自分をいつも言語化することで主の前に自分の真実を貫き通したいという強い思いがありました。しかし、今の自分の主に対する思いをそのまま書けばネガティブに終わるのではないかと恐れてしまったのです。
しかし、僕は今でも更新を続けています。それは、主が書くように促しているように思ったからです。それまでは自分の赤ちゃんの出来事のことは、事後的に主の御心がわかった時に書こうと思っていました。自分の心の中にそっとしまっておこうと思っていたのです。
今書かなければならない
しかし、僕はそのことも今、書かないといけないと思いました。なぜなら、今書かなければそれは僕の主に対する真実でないと思ったからです。もっとも、いちばん綺麗なのは、事後的に主の御心がわかり「勝利した!」と思える状態で書くことです。そうすれば、自分の信仰の良い側面だけを書くことができます。
しかし、聖書を見ればわかるように聖書は事後的に良い側面だけを書いてはいません。むしろ、読み手が違和感を覚えるほどにありのままに書いています。聖書に登場する人物で完璧に書かれているのはイエス様とメルキゼデクだけだと思います。
主に対する真実
それ以外の人物は信仰の父であるアブラハムであれ、モーセであれ、ダビデであれみんな書いてほしいとは思わない失敗を書かれてしまっています。モーセであれば自分がモーセ五書をしたためたので自分の失敗は書かない選択もできたはずです。それでも彼はありのままを書いたのです。それはモーセが主に対して真実を貫きとおしたからだと思います。
僕はもちろん、自身が聖書の人物と同じだなんて思ってはいません。しかし、主に対して真実を貫き通すということは結論だけではなく、その過程も書かないといけないと思ったのです。たとえ、その過程が喜ばしい、信仰的と言えるものではなかったとしても、です。