0928_キリスト教プロテスタントでは禁欲的に生きると律法主義だと思われることがある

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禁欲的な生き方

ユダヤ教やキリスト教のカトリックと比べた場合、キリスト教プロテスタントは相対的にストイックにはみえないように思います。前提としてストイックだからいいというわけではありません。なぜなら、新約の時代は行いによって義とされるのではなく、信仰によって義とされるからです。つまりストイックな行いによって義とされるわけはないということです。ただただ神の恵みによるのです。

だからと言って行いをないがしろにできるわけではありません。またイエス様の十字架に立ち返るなら赦してくださるから好き勝手に生きようというのも全く聖書的ではありません。

心に書き付けられた律法

新約の時代における新しい契約は、律法として人間の外にあるものに縛られるのではなくて、心の中に律法を書き付けてくださるという奥義です。これを簡単に言い換えるならば、新約の時代は「やらされる」のではなくて「やりたくなる」ものだということです。

わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。
すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、
彼らの心に書きつけよう。
こうして、わたしは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となるであろう。
へブル8:10

その動機は一体どこからくるのでしょうか?それはイエス様の愛に応えたいという気持ちから沸き起こります。そのとてつもなく大きな愛のゆえに、大きな恵みのゆえに神様に応えたいという思いからきます。そして、人間には到底神の律法は守ることはできない(一つでも犯したらすべてを犯したのと同じ)ため、神の前にへりくだりの道が開かれます。

神に近づくために

僕は神様に近づくためには犠牲が必要だと思っています。なぜなら、僕の心のあるところに宝もあるからです。僕の時間をどう使うのか?僕の感情をどう使うのか?それによって宝のありかが明確になるからです。自分の時間を神に捧げることは、もしかしたら他人から見たときにストイックと思われることかもしれません。

もちろん、犠牲がなくても神様は真実なお方で愛してくださっています。しかし、もっと神様に近づきたいと思うならばそこに必然的に犠牲をしたい。何かを捨ててでもキリストを獲得したいとう思いが出てくるのだと思います。

喜んでやる

残念ながら、キリスト教プロテスタントで、こういったストイックや犠牲に重点をおくと「律法主義」だといわれることもあります。しかし、キリストを獲得するためにストイックになるのはいいことだと思います。なぜなら、決して強いられてしているのではなく、やりたくてやるものだからです。

ストイックな生き方をしていることに満足するのではなく、神の栄光を見るためにユダヤ人やカトリックの人たちが当たり前のようにしている生き方がしたいと思いました。

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