古代ローマのクリスチャン
タキトゥスの年代記には古代ローマ時代の詳細が記載されています。その記述の中に当時のクリスチャンのことも書かれています。クリスチャンのことの多くは聖書に記載されていますが、年代記は完全に第三者の視点から書かれたものです。
当時はイエス・キリストの十字架から復活、そしてペンテコステの日に聖霊に満たされて以来、爆発的にクリスチャンが増えていった時でした。キリストを信じた人たちは決して自分の生活が楽になるとか、政治的に有利だからとか、安心だからという理由でキリストを信じたわけではありませんでした。
古代ローマ人の生き方
当時のクリスチャンたちは「キリストのゆえに命を捨てる」ということが当たり前の時代でした。その迫害は想像を絶するもので、見世物としてある者は十字架にかけられ、ある者は引き裂かれ、ある者は獣の餌食になるとう壮絶なものでした。
一方、聖書の記述によると当時の一般的なローマ人の生活は、21世に生きる僕たちと同じような生活をしていたようです。柔らかい表現を使えば、自分のやりたいように生きるというもので、露骨な表現を使えば欲望の限りを尽くすというような生き方です。世の中の流れ的にも今は「なんでもありがなんで悪いんだ」というようになっています。
キリストの絶大な価値のゆえに
冒頭に書いたタキトゥスは当時のクリスチャンたちの生き方を「まさに喪に服しているような生き方であった」と書いています。それは、彼らがこの世のものを価値がないと思えるほどの価値をキリストに見い出していたということにほかなりません。当時、多くの人が羨むようなものを持っていたパウロはこのようにいっています。
わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。
ピリピ3:8
僕はこの領域に憧れをもっています。なぜなら、僕はこの世のものを糞土のように思えていないからです。キリストの絶大な価値を知りたいからです。
キリストは変わらない
それは当時の特別な使徒たちだけが達する領域なのでしょうか。それは壮絶な迫害化にいた喪に服すように生きていたクリスチャンたちだけが達する領域なのでしょうか。決してそうではありません。
つい50年ほど前には中国で同じようなことが起きていました。つまり、キリストに絶大な価値を見出し、彼らは死をも厭わなかったのです。僕が中国に興味をもったのはそれが理由でした。
確かに彼らに共通するのは迫害下にいたということですが、迫害されたのは彼らの生き方が本物だったからだです。もし、二心のままで生きていたなら迫害を受けることもなかったでしょう。
僕自身は今二心の者の状態です。キリストの絶大な価値を見出すために、一つひとつ自分の心の中にあるゴミやチリを聖霊によって焼いて頂いてキリストに近づきたいと願っています。