少ししか祈らなければ少ししか力がない
今年は日常生活の中でふとした時に祈ることを実践しています。仕事でひと段落した時に目をつぶって祈りを捧げたり、家で子供と一緒にいる時に心の中で祈ったりしています。しかし、それで十分かといえば全く十分ではありません。多くの信仰書には多く祈れば力があるが、少ししか祈らなければ少ししか力がないと書いてあります。
それぞれにそれぞれの考え方があるのだと思いますが、僕はこの考えに完全に同意しています。日常生活で自分を十字架につけてイエス様に従う選択をするにも、教会での奉仕でも、友人関係においても祈らなければ霊的な勝利はないと思っています。
まとまった時間
これまで僕にとってのまとまった祈る時間は週2回の在宅勤務の時とお風呂に入る時でした。在宅勤務の時は朝に祈る時間があるので雑念なく新鮮な気持ちで祈ることができます。お風呂に入る時は後ろのスケジュールを気にしなくていい一方で1日の疲れや雑念が入ってきたりして集中するのに時間がかかる場合もあります。
僕にとってこの2つの祈る機会は霊的な生死にかかわるものなのですが、僕は大きな失敗をしてしまい霊的に弱ってしまうことがありました。それはお風呂場に本を持ち込んでしまったのです。本の内容は新書で道徳的にも精神的にも悪影響を及ぼすものではありません。しかし、僕は本に夢中になってしまってお風呂で祈ることをなくしてしまったのです。
力とは何なのか?
その週の精神状態は比較的よくありませんでした。それは少ししか祈らなかったので少ししか力がなかったからです。この力とは別に超自然的な奇跡やすばらしい説教ができる力ばかりじゃありません。周りの意見に耳を傾けたり、寛容な気持ちで受け入れたり、助けたり、関心をもったりするような力です。つまり、この力があってこそ、なんとかキリストのように生きることができるのです。
もちろん、キリストのようにというのはハードルが超絶高いです。しかし、そこを目指す生き方こそがクリスチャンである以上、自分の状態がどうであれ、自分の性格がどうであれ、信仰をもって追求するべきだと考えています。
落ちる前提で考える
話が少しそれましたが、今回の僕の失敗は神様との個人的な交わりの場所に本を持ち込んでしまったことです。きっと自分の理性的に自制心が働く前に無意識の状態で本を手に取り夢中に読んでいたのだと思います。事実として認めないといけないのは、夜は意志の力や理性の働きが落ちるので、落ちる前提で時間の使い方をコントロールしないといけいないということです。
今後、お風呂に本を持ち込むことはやめようと思います。