0746_生きている野犬を蹴飛ばすと噛みつかれるが

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この地上に執着することの意味

こんなことを書くと激しい反発を招きそうなのですが、人は何も持たずに生まれてきて、何も持たずに死んでいくということ。また人の一生とは悠久の歴史の中でわずかな点にすぎないこと。またただの塵過ぎないことなどを思うと、この地上に執着することの意味がわかりません。

もちろん人生80年として、80年間目の前にあるものを追求して楽しむというのはいいことかもしれません。今を楽しみ、80年先を期待し、今のために老後のためにお金を稼ぐのもいいと思います。また名誉や地位とまでは言わなくても、各種SNSでのインフルエンサーよろしく、ユーチューバーなど影響力のある人間になるのも素晴らしいと思います。

しかし、人間の欲望や記憶というのは基本的には「永遠」という概念に紐づいてしまっているので、上記のような生き方では満足というものは得られないのが実情なんじゃないでしょうか。

自分も執着している

「そんなこというやつは、この社会から出ていけ」という声も聞こえなくもありません。包み隠さずに話すと、僕自身もこの世に執着していることを知っています。それは本音です。おそらく、今死ぬとなった時に、家族ともっといたいと思うでしょう。また極度の飢餓に苦しむことがあったら座して死を待つよりも、死に物狂いで食物を探すことでしょう。

なぜわずか80年ほどの人生なのに、自分の命に執着するのかがわからないのです。またたとえ、自分がこの地上に執着しているのがわかっていたとしても、執着する意味が自分でもわからないのです。

執着しない生き方

聖書を読むと、本当の意味でこの地上に執着しなかった人物のストーリがたくさん書かれています。その最たるお方はイエス・キリストにほかなりません。わずか33歳の生涯、この地上において、天の万軍を引き連れて、王になろうと思えばなれたのですが、それは神の御心じゃありませんでした。

僕はイエス様が人の称賛や誉れよりも天の父の御心を成し遂げることだけに意識を集中していたことを知っています。このようなキリストの生き方を見て、僕自身は人の称賛や誉れは重要じゃないと思っていても、称賛を受けると喜ぶ肉が自分の中にあるのを知っています。

秘訣

結局、この地上に執着することも、この地上での評価に一喜一憂するのも、結局は自分が大切だと思っているからです。もし、完全に自分に死ぬことができるなら、この地上での執着やこの世の的なものから本当の意味で開放されます。

言葉は非常に悪いですが、生きている野犬を蹴飛ばすと怒り狂って噛みつくいてくるでしょう。でも死んだ野犬を蹴飛ばしても何もしないのです。それは死んでいるからです。自分に死ぬこと、この過程はつらいとはわかっていても、やはり、この地上に執着したくないので、自分に死ねるように祈りたいです。

おっさん
■自分に死ぬには十字架の葬りに与ることが必要

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