1034_おそらく神は人格や資質よりも神を求めることを見ておられると思う

人格や資質

クリスチャンとして生きていると、クリスチャンではないけれど素晴らしい人格や資質をもった人が大勢いるのを見て恥ずかしくなることがあります。特に僕自身は人格的にも資質的にも最底辺にいるので、クリスチャンとして生きているのにと情けなく思うことが少なくありませんでした。

人格や資質は非常に大切です。なぜなら聖書には非常に高い基準が記載されているからです。しかし、なんの方策もなしに高い基準だけが書かれているわけではなくて確かにキリストにあって造り変えられる望みをすべてのクリスチャンは抱いています。まさに陶器師が意のままに粘土をこねて作品を作るように、創造主である神様だけが形も見た目も悪かった作品を見事な作品に造り変えることがおできになるのです。

変えられる望み

たとえ、僕みたいに人として終わっていても神様と働きによって栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられている望みをもっています。そして、それは決して単なる教えや失望に終わる希望ではありません。日常生活のあらゆるところで、主が共にいてくださることで自分では決してありえなかった、なしえなかったことをさして頂く体験をもって示してくださるものなのです。

とはいっても、主と同じ姿に変えられるのは微差の積み重ねのように思います。自分の欲望があったり、自分が大切だという自己中心的な思いが顔を出すことがあるからです。しかし、そのたびに悔い改めて主の前にひざまずくなら、主は僕のうちに働いてくださいます。

神が見るのは

人格や資質は大切です。しかし、誤解を恐れずにいえば神様は人格よりも神様ご自身を求めることを見てくださっているように思います。なぜなら、人格や資質はある程度、遺伝的な要素もありますし、環境的な要素もあるからです。たとえ、ハンディを背負っていたとしても神様を求めること見てくださるというのはとても幸いだと思います。

なぜなら、人格や資質は自分ではどうしようもできないことが多いからです。自分でもどうしようもできないから、自分の弱さに気づくことができます。そして神様により頼むことができるのです。

伸びしろがある

聖書に出てくる人物ももれなく元来の人格や資質に問題があった人が多いように思います。今自分がそうであったとしても失望することはありません。なぜなら、主にあって造り変えられる伸びしろが十分になるということだからです。

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